ブログを付け始めたのが、数週間遅れているので情報がタイムリーではないのであるが、復元中の出来事も少しエピソードに加えていく。(そうしないとまるで大学の論文のようになってしまいますし。)
この火縄銃の復元は祖母の家族への想いから始まっていることは以前にも述べたが、少しその家族について話すことにする。祖母の母方はその昔、上杉景勝の頃に家臣として福島城代に任命された本庄繁長に連れ添い山形から来たという謂れのある家族で氏は小田切、地元の郷土史によると家老で信夫の代官を務めたそうだ。その後福島城が上杉の手から離れた折、帰農したため氏は返納しているので現在は小田切姓ではない。その後名字帯刀を許され、江戸期に現在の苗字を賜姓されたそうだ。この火縄銃は恐らくその家族の蔵に安置してあったものだ。というのも、父曰く、50年前の記憶によれば、本家の大きな屋敷の蔵に脇差数十、火縄銃の銃床十数が安置してある所に連れていかれ、そこでこの火縄銃を貰ったというのだ。私の高祖父は本家の人間なので孫と曾孫が東京から出てきたのでお土産をと思ったのだろう。ここで日本一周をした大叔父との話がどのように重なるのかが不明だ、おそらく大叔父が父を福島の本家まで車で連れて行った可能性はある。というのも大叔父の話では「〇〇の叔父さんから車を借り、福島に行ったときに私の父に渡した」という事だからだ。車を貸した〇〇の叔父さんはこの元小田切から東京に出てきた方だから、挨拶に福島まで行ったというのはつじつまが合う。
帰国後なかなか話す機会がなかった父と一か月半ぶりに話す事が出来たのでもう一度色々と聞いたところ、福島の祖母の父方の本家の蔵か、母方の本家の蔵か、それともその親戚の蔵か思い出せないそうだ。この三家は親戚で半径2キロ圏内にその三家の苗字が今も残る。おそらく地主で、親族だ。父曰く、その蔵があった屋敷はすっかり取り壊されてしまい、現在は住宅街になっているので思い出そうにも思い出せないとのことだ。Googleマップで祖母が昔教えてくれた本家の住所を入れると確かにすっかり碁盤の目に区画整理された住宅街になっており祖母や父がいうような大屋敷は残っていない。
続きの火縄銃の来歴の話はまた次の機会に話す事にする。
火縄銃復元日記#4 第ニ試作品の続き
第一試作品の問題点を改善するため、幾つかの修正点
イ、本来の筒の形状を再検証
ロ、筒の色合いの研究
ハ、仙台筒の銃口径の大きさの検証
ニ、目当ての位置関係の研究
ホ、目当ての形状の研究
ハ、仙台筒の銃口径の大きさの検証
仙台筒の銃口径というのはほとんどが四匁だという。todou455のブログ 火縄銃ときどき山登り (ameblo.jp)によると、仙台筒の特徴は四匁で目抜き穴が二つだ。長さは110-130cm程度でどちらかというと持ち運び安い実戦向きの火縄銃といえる。宮城や福島は江戸時代も米どころで栄えていたはずなので、身長は西方より高かったのではないかと思う。四匁というと銃口径は13.60mm-13.79mmで、刀剣ワールドの解説によると小筒は通常1から3匁であるから仙台筒は特殊な弾丸を使っていたようだ。
また仙台筒には10匁の火縄銃も存在するがこれは意匠が全く異なる。小筒は伊勢守流であるが、中筒は井上流の流れを汲んでいると日本の武器兵器 .: 火縄銃 (xn--u9j370humdba539qcybpym.jp)では解説されていた。私の火縄銃は復元された銃身からすると13.60mm-13.79mmで銃口を掘ると大分肉厚な銃身になる。後日参考史料として購入した分銅紋の仙台筒との比較写真を載せたいと思う。
参考史料写真出展
伊達とは何か<13> 銃と花火と伊達文化 | 奥州・仙台 おもてなし集団 伊達武将隊 (datebusyou.jp)
目当てに関する考察は明日に続く。
