〇〇バカ。

それってなりたくてなれるもんじゃない。

 

痛みも痒さもなくて夢中になっていても

それを周りにも理解されることもあるかもしれないけど

 

なぜだかわかんないけど

それをしているとニヤニヤしちゃったりこのうえなく幸せと思えることって

時に誰かからは批判されたりさけられたりもするのかもしれなくって。

 

そういうのを大人になっていく過程の中で

いろいろ感じて

出さないようにしていたり

みんなと一緒なくらいになるようにしていたり

なんなら忘れちゃっていたりしたかもしれない。

 

子どもってもうそんな外部からの目とか抑圧なんてないまっさらさらだから

それをそのまま表現する。

泣いたり笑ったり踊ったり歌ったりして。

寄り道したり泥だらけになったり水浸しになったりして。

 

それをさ

場所や人に合わせていろいろふたをしてきたかもしれない。

俗にいう鎧をかぶってきたかもしれない。

呪いのように自分を縛ってきたかもしれない。

 

けど

それはそれでいいんじゃないのかなと

思えるようになってきた。

 

鎧をかぶっているのも

呪いに縛られるのも

ふたをしてきたのも

それはそれでその時を生きる術だったんだよね。

 

そうやってすることで護ってきたなにかがあって

そうやってきたからここまでこれた。

 

ただ

本当はこうしたいのに我慢していたとか

本当はいやだったけど、本当は嫌いだったけどがんばってきたとか

本当は好きだったけどあきらめてきたとか

そういう【本当は】があるのに【本当は】を無視して忘れて不快に慣れていくと

不快に慣れた分だけ、快も感じなくなっていくんだって。

 

なんとなくわかるな、それ。

 

でもね。心は慣れて感じなくなって忘れても

身体ってそのストレス反応を記憶していてなくなったことにしないで記録してくれている。

だからそれがつもりつもった時に症状として出てくる・・・

 

それを出すきっかけも発端ももうなんでもいいと思うんだよ。

いろんな手段がある。

でもどれがしっくりくるかは自分しかわからない。

自分のこころは自分だけがわかっている。

友人のこころは友人だけがわかっている。

パートナーのこころはパートナーが。

子どものこころは子どもだけがわかっている。

 

自分はどうしたいのかな。

どんな風に感じるのかな。

そうやって自分の【本当は】に目を向けて

自分にいらない抑圧されたルールは手放すことができる。

大人の特権だ。

大人になるっていうことは心が自由になるってこと。

 

自由になると〇〇バカな自分が楽しくて楽しくて(笑)

抑圧することも

自由になることも

どっちもできちゃうなんて大人ってなかなかいいとさえ思うなー

 

というわけで

今日も一生懸命、今を生きています

 

 

息子が書いてくれたわたしの七夕のお願い爆笑爆笑爆笑