ここまで,大バッハ作曲の管弦楽組曲を 1 曲ずつ取り上げてきました。
今回は,イタリアの作曲家ジュゼッペ・マルトゥッチ(Giuseppe Martucci, 1856-1909)によるピアノ独奏編曲版を取り上げます。
大バッハの真作とされている管弦楽組曲 4 曲(BWV1066-1069)は,マックス・レーガー(Max Reger, 1873-1916)によって 4 手のピアノ連弾用に編曲されており,1911 年頃にペータース出版社(Edition Peters)から出版されています。
レーガー版は,既にいくつかの録音もあり,ピアノ編曲版としてはとりわけ有名ですし,レーガーの理解度が高かったこともあって,編曲の出来栄えもなかなかのものです。
レーガー版の特徴としては,4 曲すべてを編曲しており,4 手用なので最大 20 本もの指を使いうるため,原曲の音符を極力漏らさないように詰め込んでいて,ピアノという楽器を使いつつも,大バッハが書いた楽譜に忠実な編曲を目指していることが挙げられます。
もちろん,20 世紀初頭のことで,しかもピアノを用いたわけですから,当時のピアノが現在のピアノとは造りや響きが異なっているとはいえ,バロック時代との乖離は明白です。
それでも,レーガーが大バッハの楽譜をよく読み込んでいたことは,その編曲版から十分に汲み取ることができます。
一方,マルトゥッチ版は,第 4 番を欠いており,第 1 番から第 3 番までの 3 曲だけとなっています。
なぜ第 4 番の編曲がなされなかったのか,筆者にはその理由を調べ上げることはできませんでした。
マルトゥッチ版は,ピアノ独奏用なので,当然ながら 2 本の手,すなわち 10 本の指にゆだねられるわけですから,レーガー版のように原曲の音をひたすら詰め込むという戦略がさすがに成り立ちません。
そのような制約があるがゆえに,マルトゥッチのバッハ解釈が,よりくっきりと浮かび上がっています。
なお,マルトゥッチ版はレーガー版に先行して 1890 年代に作成・出版されており,マルトゥッチがレーガーを模倣したということは考えにくく,マルトゥッチの独創性が高いということも強調しておくべきでしょう。
細かいことまで取り上げると枚挙にいとまがないので,ここでは筆者が特に面白いと思った数点についてだけ述べることにします。
マルトゥッチ版は,大バッハゆかりの都市であるライプツィッヒのブライトコプフ出版社(Edition Breitkopf)から 1 曲ずつ出版されています。
出版譜の番号が第 1 番から順に Nr. 3477,Nr. 3478,Nr. 3479 と連番になっているので,編曲時期や完成時期にいくらかのばらつきはあったとしても,連作という認識で間違いないでしょう。
譜面は近代的なピアノ譜の体裁になっており,大バッハのクラヴィーア作品の自筆譜のように各声部が厳密に書き分けられているわけではありません。
そのため,譜面上は各声部の横の流れがわかりづらく,対位法書法による声部の独立性よりも,縦の和声の方が目につく体裁です。
また,ピアノ独奏なので,手が届かない離れた鍵盤の音を鳴らしたい箇所は,譜面上は装飾音として記されていて,サスティン・ペダルを踏んでその装飾音の響きを残しつつわずかな時間差で別な音を鳴らすなど,ピアノらしく広い音域にわたるダイナミックな演奏が要求されています。
第 1 番の序曲の冒頭を見てみると,通奏低音に由来する低音部を左手がずっと平行 8 度でたどっていきますが,これについては原曲においてチェロとヴィオローネが平行 8 度で通奏低音を担っているのを模倣していると思えば自然な表現です。
一方,上声部の第 1 ヴァイオリンに由来する声部も,多くの部分において平行 8 度で重ねられています。
これは,実際に聴いてみると,メロディーがとても輝いて前に出てくる効果があり,原曲において第 1 ヴァイオリンとオーボエがユニゾンになっているのとはまた違った趣で,なかなか個性的な編曲です。
第 1 番序曲の冒頭部分
低音部が平行 8 度で強調されていますが,高音部でも平行 8 度の箇所が目立っています。
フーガに入ると,フーガという性格上もあってか,原曲の対位法が強調され,整然とした 4 声体で書かれています。
指が足りないという事情もあるのでしょうが,通奏低音に由来する低音部は 8 度で重ねずに単音になっており,うるさすぎないように調整されています。
しかし,低音部がずっと単音で構成され続けているわけではなく,その後は 8 度でガンガン鳴らす箇所も出てくるので,曲想によって低音部を書き分けていると思われます。
同曲後半フーガの開始部分
ここでは,4 声の対位法としての書法がわかるような記譜法になっています。
第 3 曲のガヴォットでは,上 3 声を指が足りる限り右手だけで担い,左手は通奏低音のパートをほとんど平行 8 度で弾き続けます。
これがマルトゥッチの編曲の基本形のようです。
第 1 番第 3 曲の第 1 ガヴォット
4 声の対位法ですが,楽譜が和音の羅列として書かれているため,各声部の横の流れはわかりづらくなっています。
第 2 番についても,第 1 番と編曲姿勢に大きな変わりはないのですが,終曲バディネリにおいて,やはり通奏低音のパートを執拗に平行 8 度で鳴らしつつ,フラウト・トラヴェルソと弦楽器の上 3 声をほとんど右手だけで弾き続けるという過酷な試練が課されており,まったく躊躇がありません。
もはや笑うしかない芸当であり,まさに「バディネリ」すなわち「冗談」を地で行くような編曲になっています。
しかしながら,サーカスの綱渡りを彷彿させるような,緊張感に満ちたひきつった笑いというところでしょうか。
第 2 番終曲バディネリの前半部分
これをインテンポで演奏するのは至難の業です。
同曲の最後の 9 小節
ほぼ原曲通りなので,右手が酷使されており,手がもう 1 本欲しいぐらいです。
さて,第 3 番は,前 2 曲とは編曲スタイルがやや異なっています。
それもそのはずで,原曲では 3 本のトランペットとティンパニが登場しますので,それらの模倣が随所にみられます。
まずは序曲の冒頭から低音のトレモロが華やかさを演出しています。
レーガー版でも同様に,ティンパニの模倣としてトレモロが多用されてはいますが,マルトゥッチ版の第 4 小節後半の低音域に駆け下りていく刺激的な表現はなかなか個性的ではないでしょうか。
第 3 番序曲の開始部分
ティンパニの模倣とみられるトレモロのために楽譜が真っ黒に見えます。
第 4 小節後半(3 段目)では,低音域に駆け下りていき,低音感がより強調されています。
フーガのところは,第 1 番や第 2 番と同様に,対位法的書法が強調されています。
それでも,通奏低音に由来する左手の低音部に,意地のように平行 8 度が多用されているところには凄みが感じられます。
同曲後半フーガの開始部分
対位法が重んじられており,各声部を書き分けた体裁になっています。
音響的な面以外で,マルトゥッチの原曲に対する理解の深さを垣間見ることができる箇所があります。
終曲ジーグの編曲においては,前半の最後のところで,弦楽合奏の部分だけが取り上げられており,トランペットとティンパニは無視されています。
マルトゥッチが,あたかも大バッハの弦楽合奏のみによる初期稿の存在を確信していたかのような編曲ぶりです。
第 3 番終曲ジーグの冒頭
冒頭では主旋律を 8 度で重ねており,トランペットの華やかさが模倣されています。
同曲前半の最後のところ
ここでは,弦楽合奏に由来する音符のみが書かれていて,トランペットとティンパニのパートの模倣は放棄されています。
マルトゥッチの編曲は,あくまでもピアノという楽器の特性を活かした編曲であり,管弦楽曲をピアノでどう模倣するかということに心血を注いでいて,大バッハのクラヴィーア曲,とりわけチェンバロ独奏曲のように,チェンバロ演奏を前提としたデリケートなアーテュキュレーションを踏まえたものではありません。
その点において,大バッハ自身が行った,ヴィヴァルディなどの他の作曲家の協奏曲からのチェンバロ独奏用編曲とはまったく別な世界です。
しかし,現代のバッハ演奏やバッハ解釈の端緒となる研究が盛んになるよりもずっと前の 1900 年頃という時期の編曲ながらも,大バッハの原曲をしっかりと読み込んだ上で,原曲の音楽性を決して損ねることなく,ピアノという楽器を用いての新たな表現を追求することに成功しているには違いありません。
にもかかわらず,演奏至難なこともあってか,マルトゥッチ版が顧みられることがなかったようで,最近まで録音もなされていませんでした。
コロナ禍の 2020 年 7 月に,イタリアのキアーラ・ベルトリオが録音したのが,世界初録音とされています。
レコード会社が「世界初録音」とうたっていても,調査不足や誇大広告で嘘のことが少なからずあり信用ならないのですが,本 CD については,筆者が知る限り,確かに前例はありません。
ベルトリオの演奏は素晴らしく,大バッハもマルトゥッチも深く理解し,高度な技巧が要求されている中でも冗長にならず,むしろ繊細な表現がなされていることに感銘を受けます。
そして,難易度を感じさせないベルトリオの優れたテクニックにより,べらぼうに高い演奏技巧が要求されているにもかかわらず,演奏の難しさに耳が引っ張られることなく,大バッハの原曲の持ち味である整然とした構築感を体感することができます。
特筆しておくべきこととして,ベルトリオは録音に当たって,リストが溺愛したシュタイングレーバーのグランドピアノを使用しています。
瞬発力と響きの透明感が印象的で, 楽曲のスケール感を考慮すると,やはりこの楽器でなければならなかったのでしょう。
この楽曲,この演奏を通じて,19 世紀末のピアノ音楽のロマンティシズムの先にある新古典主義が見えてきます。
キアーラ・ベルトリオの演奏による CD のジャケット
【CD データ】
レーベル:Da Vinci Classics
CD 番号:C00644
J. S. Bach(Giuseppe Martucci 編曲)
管弦楽組曲ピアノ独奏編曲版
第 1 番 ハ長調
第 2 番 ロ短調
第 3 番 ニ長調
Chiara Bertoglio, Piano