『ストレスとはモザイクである。』


今しがた、この言葉が閉店前の居酒屋に「一杯だけ良いかな?」と暖簾をくぐってくる客みたいに降りてきました。


「ごめん!もうネタ切らしてて!」とお断りしてもよかったのですが、最近さばき切れてない材料があるので「いっちょやるか!」と書き始めました。


「ワクチンもう打ちました?」


もはや喋ることがないなら取り敢えず天気の話でもしておくのと同じノリで行われるこのやりとりに随分飽きて参りました。


私もあまりにも聞かれるので

『もう7回打ちましたよ!』

と答えたりしています。笑


ワクチン

打つ派 or  打たない派


毎度のことながらどなたかが謀をしている

二分の計

よろしくないですね。


駅のホームで電車が目の前を通過してきたら少し後ろに下がらなければならないのと同様に、少し引いて物事を考えてみて、ワクチンを打つ人にも打たない人にもグラデーションがあるということに行き着かねばなりません。


ワクチンを打った人の中には

▲皆んなで協力しようよ!

▲ワクチンさえ打てば重症化しないから

▲周りの皆んなが打ってるし

▲職場で斡旋されてて断りにくかった

▲打ちたくないけど世の中を正常化するにはもう仕方ないから

▲打たないと行動制限が面倒だから


ワクチンを打たない人の中には

▲普通の風邪のウイルスにも特効薬はないのにワクチンが有効な理由が分からない

▲自然免疫獲得ではなぜダメなのか

▲まだ治験段階のものを信用しろという意味が分からない

▲ワクチンでどこかの国コロナおさまった?

▲ワクチンを打った後の副作用が出ても仕事が休めないから打てない

▲ワクチン打って亡くなった人が沢山いる

▲政府や医師会がワクチンの良いことしか言わないのが怖い


など色んな事情があるのです。


しかしテレビから流れてくる政府や専門家の意見は決まってワクチンを打つ人は協力的な正しい人で、ワクチンを打たない人はデマ情報を信じているバカという図式になります。


現段階で打たない人の中に、ワクチンを打つと将来的に遺伝子が改変されるからということを未だに信じているという人はほぼいませんよ。

逆にワクチンを打たれた人の中にどうせ効果なんてないと思いながらも打っている人もおられるのです。


十人十色どころか一人十色ぐらいあることに気がつかねばなりません。そういう意識が欠如している時に気づきを与えてくれるのはやはり本です。

下記の本は読書初心者にもオススメです。



多様性の時代なんて言いながら、色んな事情がある人たちを、マスコミをはじめ大きな力を持った人達がたった二つの派閥にばっさり分けてしまいます。切り裂き電波ジャックです。


テレビって昔からずっとこんな調子なのになぜ皆この仕組みに気がつけないのか?


周りをバカにしているわけではなく、本当に率直な疑問でした。そういう疑問をずっっっっと抱えていたので冒頭の「ストレスとはモザイクである」の言葉が降りてきたのだと思います。


はっきり見えない、決まってない、答えがない、コロコロ変わる、ストレスとはそういう状態の時に強く起こるのだと気がつきました。


ほとんどの人は一歩引いて物事を考える必要があることも分かっているけど、モザイクがかかっていうような状態が続くとストレスに先に負けてしまうんだなぁと。


「とにかくちゃんと決めてくれ!」

「どっちが正しいんだ!」

「はっきりしろ!」


結局は大衆側が勧善懲悪を望んでいるのです。


私の治療院の待合室にあるテレビは夕方になると水戸黄門がはじまるチャンネルしか流しません。ニュースやワイドショーをやってないからです。


水戸黄門と言えば勧善懲悪の典型の時代劇ですが、一般人に扮した権力者が町に出て悪人を懲らしめるストーリーです。このはっきりとした形式が大衆に好まれるのでしょう。


ですが私なんかは水戸黄門を見ているとひどくムカムカします。


悪人に悪事を働かせて泳がして、戦いになって部が悪くなると「この印籠が目に入らぬか!」って相手をひざまづかせるんですよ。

とても陰湿なやり口に目も当てられませんし、悪人側も捕まるかもしれないこと承知で悪いことしてんだから印籠出されたぐらいで怯むんじゃねぇ!って。笑




犯罪者はもちろん悪いのですが、役人のこういうやり口は悪人を超えた完全超悪と呼ばれなけれなければなりません。


はっきりしているというのは「他がない」状態なので断捨離の様なすっきり感もありますし、モザイク状態は確かにストレスを感じます。

ですがかつて友人と貸し借りしていた懐かしき頃のビデオテープのモザイクには想像力をかき立てられ、浪漫に似た何かを感じられていたはずではないでしょうか!笑



下ネタで締めたら流石にあれなのでもう一言



二分すべきは

対立をうむ為でなく

他者と一をニに

分け合うときである