記憶とは

結界のない自在の翼

 

私は十三歳まで 電気のない 山また山奥で育った

そのせいだろうか

蝋燭 ラムプ 炭火 焚き火(暑かねぇ)の類に 眼がない

ゆらゆら 揺らぐ炎を 見つめていると

「記憶の灯芯」に ボウと火が 移っちまう

今日はお盆の入り

黄昏を待ちかねて 提灯に 火を入れる

ゆらり ゆらら たらり

ぼんやりと それを 眺めていたら

ふいと

 

 

ランニングに半ズボンの

日焼けした小僧

両の手に 大きな胡瓜を 一本ずつ持って

裸足で 立っている

小僧は 私に向かって

「ばぁちゃんがねぇ…」と 言いかけたが

私は その続きを 知っていた

 

山神川の畑にな 食べ頃の胡瓜が 三本成っておる

盆棚に供えるから 採ってこいや

あぁ 一番大きなヤツは

ガラッパ(河童)さぁに 残しておくんじゃぞ

忘れるなや

したば お前たちが 川で遊んでも 悪さはなさらん

翌日

畑を見たれば 「河童巻き」の夕飯にでも なされたか

胡瓜は なかった

さぁて

唐突ながら 話は回転寿司で 「河童巻き」から

400年ほど前の「関が原」へと

西軍に組した薩摩の 島津義弘さんと甥の豊久

不運にも敗け戦

そこで 東軍の将・家康さんの本陣近くを 蹴散らすという

意表の策に出て 中央突破

後に

バカフトモン 「島津の退き口」と 呼ばれる

この作戦で 義弘さんは 豊久以下 多くの武将を失い

堺から船で ヨレヨレの ご帰還

薩摩一国のみは安堵 だが 日向は「どうする家康」の手に…

豊久が城主であった 日向・佐土原の臣下衆は

路傍のひとに…

 

これを哀れんだは 義弘さん

 豊久の遺臣を 薩摩半島の中ほど 「永吉」領に移封した

さて

来てはみたものの 平野部は従来の持ち主あり

一握りの上層部は いいけれど

ロクに禄もない 下っ端の陣笠連中は どもならぬ

<いつの世も そだね>

山に分け入り 棚田・棚畑を拓くしか 手がなかった…

それが 私のご先祖らし

 

<故郷の図 三曲屏風部分/板絵油彩/850×850粍>

 

まぁ

文書の類も 一切ないから

かしらと 思うけれど

この絵の 右隻の上方に 西海を望む 丘があって

自然石や 刻字の崩れた墓石が 百数十基ほど 西を向いて

黙って 海を見てたのよ

「上海帰りのリル」 みたいにねぇ

それに

集落「戸数七軒」というのも 何やら「横溝正史」風で

おとろし

 

農作業や山仕事も すべて「結い」で 「郷中七軒」…

結束強い一族

おそらく数百年 近代化なんて 無縁の谷の日々

<来たは 税金督促と 赤紙くらいか>

この図は

1960年頃の風景を 記憶を頼りに描いたもの

学校で洗脳された 「西洋遠近法」との

折り合いをつけるのに 往生した挙句の 失敗作

ほんまは ねぇ

彼の 「洛中洛外図」みたいに したかったの

 

駄作では あるが

私が この世に 生まれた時

両の手に 握り締めていた 「何か」を

 初めて

この 「谷間を吹く風」に託した 記念の場所だから

谷間遥かなり

 

この谷も過疎となり

兄夫婦一軒のみを 残して絶えた

もはや 集落とは呼べない 山野と成り果ててはいるが

兄は最後の郷長として いまだ意気軒高である

 

それに 今日は盆の入り

精霊たちは ひたすら 故郷を目指す

たとえ 故郷が荒れ野 であろうとも

今夜は きっと蛍が飛びかい ガラッパ君も 出て

 賑やかだろう

その精霊たちの 乗り物は、蝉の背である

このころの 蝉の眉間には 真紅の小さな ルビーの星が三つ

それが あの世発行の 「往復切符」

くれぐれも、気いつけて

行って

 お帰りや 

 

 

●暑さにお皿乾きて 旧投稿「故郷の地図」を 手直し再投稿

ご無礼ご容赦