きれいごと | 不登校支援のブログ

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個人事業「不登校の不凍港」で不登校の子どもたちの訪問等の支援をしています。
現場の様子や、子どもたちと関わるポイントを紹介していきます。

僕が音楽活動

https://twitter.com/aku30211?s=21

のほうで書いた詞に以下のようなものがあります。

 

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与えられてこなすだけの日々に疲れて

どこにいても自分の居場所がなかった

逃げ場を探すのも疲れてしまって

いつの間にかただここで画面を見つめてた

 

いつかきっと君も思い出すだろう

昔住んでいた町のこと 好きだった場所を 気づかなかったけど

 

遠回りしてきたこの日々にも意味があって君をつくってる

それを知るまではまだ時間がかかるけど それは確かなんだ

 

 

塞ぎ込んで世界を憎んだりしたね 

けど一番変われない自分を嫌ったね

誰のせいでもなく「で、どうする?」を考えた時

それは確実な一歩さ

 

また嫌なことが待ってるかもしれない

そんな時は逃げていい ゆっくり休んで

「で、どうする?」を考えよう

 

 

遠くに感じるその「いつか」に少しずつ近づいていってる

そろそろ自分も知らない自分を見てみてたくはないかい?

すぐに変わらなくていい 少しの角度の変化が大きな幅になる

特別なことはしなくていい歩んだ道がいつか意味をもたらす

それまでゆっくりでもいいから生きていて

 

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これは2年前、僕が一度、不登校の子どもたちの訪問支援の仕事を離れた時に、

何か子どもたちの背中を押す言葉を残せたらと思って作った曲の詞です。

 

この曲のモデルになった子は希死念慮を抱えていて、

すぐに虚無感が振り払えるわけではないリアリティを理解しながらも

少しでも温かく背中を押せたらと言葉にましたが、

この詞を身近な人から「綺麗事」だと言われてしまいました。

 

「決めつけ」「分かったつもりになっている」と。

 

 

その人は自分の気持ちを正直に伝えるのが親しい人と求めるコミュニケーションで、

あくまで個人の感想だと添えてくれましたが、僕にとっては複合的なショックでした。

 

 

まずは、近しい人とコミュニケーションの歩み寄りが出来なかったこと。

 

その人が正直なコミュニケーションを求めるように、嫌なことは嫌だとやっと言えたのに、今度は良かれと思ったことがそう受け取られて辛いと言われてしまいました。

 

人それぞれだとわかっていても、分かりあうというのは難しいことです。

そういうものだと思って、ある程度自分の大切なものは自分で守る気持ちが必要なのかもしれません。

 

 

そして、「綺麗事」だということに、内心自分でも分かっていたことに気付かされたことです。

いくら自分が近い経験をしていたとしても、当事者からすればそれは経験者が語る美談でしかないんですよね。

 

 

それでも自分が歌詞を書き続ける理由は、より心に寄り添えるようにと、ちょっとずつ球種を変えているようなものなのかなと、それは今言えるかなと思います。

 

救われないことだって時に曲にはして、だけどそれだけでは終わらないように、希望のある曲もつくる。

 

希望だけじゃない。絶望だけじゃない。それが人生。

けど、希望を言葉にしないことは、悲しいことじゃないか。

 

ブログにしようと思っても、ちょっと今の僕には上手くまとめられそうにはありませんでしたが、

変化を受け入れて、だけど譲れないプライドを持って、好きなものを好きであり続けたいと思います。