ずっと気になっていたんですが、見に行ける範囲での公開が少しずれていたので、やっといけました。
いろんな形で得られる限りの香港を見て知ることは香港映画を愛するものとして私なりの誠意かなと。香港という街の背景と文脈があってこそエンタメも映画も生み出されているのだから。
見ながら、何の感情も言葉も浮かんでこなくて、ただ目まぐるしく目の前で繰り広げられている様を見続けて、終わった後もなかなか立ち上げれませんでした。
見終わった後も明確な感想が出てこない。私はアンソニー・ウォンが香港の映画に以前のように出られなくなったことがとても悲しいし、どちらかと言えば市民側の意見を持つものだと思うのだけれども、それでもどちらを支持するかの表明を明確にしたくないというずるい思いゆえに何も語れないのかもしれない。同時にこの映画だけでは全体像が把握できたという自信もないのかもしれない。市民と警察の対立を描かれる部分が多くて、そうなると私はどう感じていいのかよくわからなかった。警察の人たちも香港の市民の一部なのではないかとか、考えてしまった。体制と市民は対立構造だ。でも警察と市民は本当に対立構造なのだろうか。そのあたりの真意がわからないので何も語れないとも思ってしまう。
普通に暮らしていた街が抗争の場所となり、普通に暮らしていた若者たちが自分たちの街を守るためにそれぞれの意思で闘った。香港は少し特殊な街かもしれないけれども、それでも平穏な生活があって世界のどこの若者ともそんなに変わらない若者たちだったはずだ。たった6年前。今普通に歩くことのできる場所でこんなことが起きていたのかと思うと何ともやるせない。若者たちが自らあれほどの熱量で行動を起こしていたことにただただすごいことが起きていたのだとしか言えない自分が悔しい。
映画は抗議運動側に立っているけれどもそれでも体制側にも誠実だったように思う。中立ではないけれども誠実。それは、対立してしまったけれども、香港という街を愛している故の視点ではないかと私は思った。
ただ悲しいのは、香港を好きなのにその街を離れなくてはならなくなった人が多くいること。好きな街を守りたかっただけのはずなのに。
たまたま最近、『チ。-地球の運動について-』を見ていたから人は何のために自分の命を懸けられるのだろうかという部分が重なってしまった。あれほどの熱量をなぜ、何に向けられるのか。
たった6年前にああいう事実があり経験をした人が今の街の中心である香港。いま何を思うのだろう。
香港映画が流行って、日本人も気軽に旅行に行けている現在。当時だったらそんなことはできなかった。
街は落ち着いたという事実は事実だ。それはいいことなのか?よくないことなのか?市民はどう思っているのか知りたい。
この映画を通して事実を目撃した。
でも、わからないことだらけなのだ。肯定も否定も評価もいまのわたしにはできない。でもだから知りたいのだ。
香港は昔から私にはよくわからない街なのだ。だから魅力的なのだ。
香港という街と香港を愛するすべての人に敬意を。
という言葉しか今の私は持ち合わせていない。
でも、心からの敬意を。