シナプス伝達 | きくな湯田眼科-院長のブログ

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横浜市港北区菊名にある『きくな湯田眼科』

神経細胞同士、または神経細胞と他の細胞との接合部をシナプス synapse と言います。


英国の著名な神経生理学者、病理学者のCharles Scott Sherrington (1857-1952 下の写真)が 2つの神経細胞同士の結合部位を、ギリシャ語で”結合”を意味する”synapsis”から取って、そう名付けたものです。



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”実験生理学の父”(それ故妻や娘を含めた動物愛護団体からは目の敵にされました)と呼ばれるフランスの生理学者Claude Bernard(1813-1878 下の写真:当ブログ自律神経の項を参照してください)が1854年に、クラーレを作用させたカエルの足を用いた実験から、クラーレが神経筋接合部のみに選択的に作用することを認め、この部位が薬理学的に他の神経部位と異なっていることを示唆しました。



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ベルナールの蛙の実験の図


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しかしベルナールの実験結果は無視され、1877年に神経の活動電位を発見したドイツの生理学者Emil Du Bois-Reymond (1818–1896 下の写真)によってシナプス伝達はほとんどが電気的に行われており、補助的にアンモニアか乳酸が伝達物質として作用しているに過ぎないという説が出されました。これが最初のシナプス電気伝達説になります。なお、活動電位の発見等の業績から、レイモンドは”電気生理学の父”とされています。



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パリ大学生理学教授のLouis Lapique(1866-1952) も別の観点から電気伝達説を唱え、神経と筋との電気的なクロナキシス(時値)が同期した時に筋の活動が起こるとして、遅い筋肉は遅い神経により支配されているのだと説明しました。彼によるとベルナールのクラーレの実験では、クラーレが筋のクロナキシスを延長し、神経と同期できなくなったために麻痺したのだと説明しました。このラピックの電気伝達説はその後多くの支持を得ました。



1901年、ケンブリッジ大学生理学教授のJohn Newport Langley(1852-1925 下の写真)が交感神経支配の分泌腺や平滑筋が、神経刺激以外にアドレナリンに対しても反応することを示しました。



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1904年、Thomas Renton Elliott(1877-1961 下の写真)がラングレイの実験を受け、アドレナリンが伝達物質として働いていると言う化学伝達説を唱えました。



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同年、Downing College, Cambridge の初代薬理学教授であったWalter Dixon(1871-1931 下の写真)は副交感神経においてエリオットの説を実証しようとしました。彼は迷走神経刺激下の心臓から、別の心臓の収縮を遅くする物質を抽出することに成功しました。しかし残念ながら、彼はその物質の同定ができませんでした(恐らく彼の発見した物質はアセチルコリンではなくコリンであったと考えられます)。この時には交感神経刺激剤としてアドレナリンは合成されていましたが、アセチルコリンは合成されておらず、ディクソンにはその物質を知るよしもなかったのです。ディクソンはそれをムスカリン様物質と推定しました(今考えると大変慧眼であったと思われます)。これを最後に化学伝達説は20年近く忘れ去られた形となりました。



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こうしてシナプスの情報伝達に関して、20世紀当初に電気伝達説と化学伝達説の二つの説がしのぎを削ることとなり、1940年代までは前者の電気伝達説が圧倒的に有力となるのでした。


この概念を根本的に覆し、化学伝達説を証明したのが英国のHenry Hallett Dale(1875–1968)とドイツのOtto Loewi (1873-1961) です。彼らは神経伝達物質のアセチルコリンを見出し、1936年に共同でノーベル医学生理学賞を受賞しました。



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こうして最も早く見いだされたシナプス伝達物質はアセチルコリンと言うことになります。