2013/11/4 訪問BLOGはコチラ
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観音寺城 -佐々木六角氏が繖山全域に築いた巨大山城-
別名 | 佐々木城 |
所在地 | 滋賀県近江八幡市安土町石寺ほか |
城地種類 | 山城 |
築城年代 | 建武2年(1335)?、文明3年(1471)? |
築城者 | 佐々木氏頼?(佐々木六角氏) |
主要城主 | 佐々木六角氏 |
文化財史跡区分 | 国指定史跡 |
天守の現況・形態 | ― |
観音寺城の創築は明らかではないが、宇多源氏の流れを汲む近江国守護佐々木六角氏の居城で、「太平記」にその記述が残る。
文明3年(1471)ころから、石垣・石塁による城づくりが、拡張と改修をくり返しながら進められていったと考えられる。
永禄11年(1568)、織田信長が上洛する際、近隣の城を猛攻するそのすさまじさに、六角義賢・義治父子は城を捨てて逃げ出し、以後廃城となったとされている。
標高433メートルの繖山全体に多くの曲輪跡が残り、戦国時代の山城としては最大級の規模をもつ。
主郭部や屋敷地に築かれた高石垣は、日本の城で初めて本格的に導入されたもので、安土城の総石垣造の先駆をなすものとされている。
目次
観音正寺
100名城スタンプ
伝本丸跡
大手口石段
本丸虎口
暗渠排水跡
伝平井丸跡
平井丸虎口
埋門
伝落合丸跡
伝池田丸跡
池田丸西虎口
まとめ
観音正寺
観音正寺の創建は推古天皇13年(605)、聖徳太子が琵琶湖に住む人魚の願いを聞き入れ一宇を設けたのが始まりと伝えられている。
中世に入ると佐々木六角氏から庇護され寺運が隆盛し最盛期には僧坊70余を擁する大寺となった。
応仁・文明の乱の際、佐々木六角氏が境内付近に観音寺城を築くことになり麓に移される。
永禄11年(1568)、織田信長の侵攻により観音寺城が落城すると庇護者を失い、さらに焼き討ちにもあい多くの堂宇が焼失し衰退する。
慶長11年(1606)、宗徳法橋(教林坊の僧)が再興し境内を再び旧地に戻し堂宇を再建した。
平成5年(1993)の火災で、明治15年(1882)に彦根城の槻御殿を移築して本堂としていたものが焼失し、重要文化財に指定されていた千手観音立像をはじめ、数多くの仏像や寺宝が廃塵に帰した。
中世に入ると佐々木六角氏から庇護され寺運が隆盛し最盛期には僧坊70余を擁する大寺となった。
応仁・文明の乱の際、佐々木六角氏が境内付近に観音寺城を築くことになり麓に移される。
永禄11年(1568)、織田信長の侵攻により観音寺城が落城すると庇護者を失い、さらに焼き討ちにもあい多くの堂宇が焼失し衰退する。
慶長11年(1606)、宗徳法橋(教林坊の僧)が再興し境内を再び旧地に戻し堂宇を再建した。
平成5年(1993)の火災で、明治15年(1882)に彦根城の槻御殿を移築して本堂としていたものが焼失し、重要文化財に指定されていた千手観音立像をはじめ、数多くの仏像や寺宝が廃塵に帰した。
100名城スタンプ
【名称】 観音正寺
【住所】 滋賀県近江八幡市安土町石寺2
【電話】 0748-46-2549
※ 2013年11月9日時点の情報です
【住所】 滋賀県近江八幡市安土町石寺2
【電話】 0748-46-2549
※ 2013年11月9日時点の情報です
「観音正寺」の石垣下の小道を進んで行きます。
伝本丸跡
標高は395メートル、面積は約2,000平方メートル。
主な遺構としては、礎石、暗渠排水、溜枡、幅4メートルの大手口石段などがある。
またここには「二階御殿」と言われた施設があったのではないかと思われている。
主な遺構としては、礎石、暗渠排水、溜枡、幅4メートルの大手口石段などがある。
またここには「二階御殿」と言われた施設があったのではないかと思われている。
大手口石段
昭和44年の発掘前は、全く土砂や岩石、腐植土の下に埋没して、その上に雑木や竹、雑草が繁殖し絶対に山の斜面としか見受けられなかった。
ここは本丸の真下にあたり、かつては山麓の曲輪から本丸へと通じる大手道と考えられていたが、平成22年に実施された付近の発掘調査にて、この大石段はこの下の曲輪にもつながらないことが判明している。
ここは本丸の真下にあたり、かつては山麓の曲輪から本丸へと通じる大手道と考えられていたが、平成22年に実施された付近の発掘調査にて、この大石段はこの下の曲輪にもつながらないことが判明している。
本丸虎口
暗渠排水跡
伝平井丸跡
平井丸は、標高375メートルで面積は約1,700平方メートル。
平井氏の居館があったのではないかと思われている。
観音寺城の中でも石垣、石塁の規模が最大の曲輪跡である。
北東には張り出しを持つ建物とそれに付随する庭園跡が発見された。
平井氏の居館があったのではないかと思われている。
観音寺城の中でも石垣、石塁の規模が最大の曲輪跡である。
北東には張り出しを持つ建物とそれに付随する庭園跡が発見された。
平井丸虎口
埋門
伝落合丸跡
「平井丸」と「池田丸」の間にある屋敷跡。
資料には出てこない。
斜面に対し雛壇状に配置され、周囲は土塁で区画されている。
資料には出てこない。
斜面に対し雛壇状に配置され、周囲は土塁で区画されている。