高岡城 -築城の名手高山右近が縄張に腕をふるった城-

 

 

別名
所在地 富山県高岡市古城 
城地種類 平城
築城年代 慶長14年(1609)
築城者 前田利長 
主要城主 前田氏
文化財史跡区分 県指定史跡 
天守の現況・形態 
  
富山城が焼失したため加賀前田家2代当主前田利長が慶長14年(1609)に高岡城を築城。

縄張は築城の名手として知られたキリシタン大名高山右近による。

元和元年(1615)、一国一城令が出されたため、未完の建物は破却されたが、一部の土塁や石垣、堀はそのまま残った。

曲輪は土橋によって結ばれているが独立性が高く、富山城の縄張との共通性も指摘されている。

城跡は明治8年(1875)に公園条令による指定を受けて高岡古城公園となり、現在も往時の姿を偲ばせている。

 

 

 

目次   

 

・ 前田利長(1562-1614)

 

○本丸跡

 

・ 朝陽橋

 

・ 朝陽の滝


○三の丸跡

・ 民部之井戸

 

○内堀
 

・ 100名城スタンプ

 

・ パンフレット


○まとめ

 

 

 

前田利長(1562-1614)
加賀藩第2代藩主 前田利家の長男。

慶長3年(1598)家督を継ぎ、翌4年父利家の死後五大老に列した。

同年9月徳川家康に加賀征討の動きがあると、母芳春院を江戸へ人質に出し、徳川秀忠の娘珠姫を嫡嗣の利常の嫁に迎えることを約束して和解した。

翌5年関ケ原の戦では徳川方(東軍)に付き、北陸の西軍大名を征討しその功により、加賀国江沼・能美両郡と西軍にくみした弟前田利政の能登一国も還付されるなど加賀・能登・越中の大半を支配した。

10年家督を利常に譲り、富山城(14年より高岡城へ移る)に隠居したが利常の藩政初期にも政治を総覧している。

終生徳川氏との融和を図り、前述利常に徳川秀忠の娘を迎えたり、家康の側近本多正信の次男で正純の弟、本多政重を5万石の大禄で重臣に召し抱えている。

その治政は農政では新田開発と慶長10年越中の総検地を行い、棟別銀制度や夫役の夫銀化を図るなど徴税法を整備した。

さらに家臣団の統制にも意を用い、豊臣の世から徳川の世へ移り行くなかで、前田家の存立のために努力していたのであり、慶長19年には病が重くなるなかで、自分の領知を幕府の意にまかせる願いを出しているほどである。

 

 

 

本丸跡

本丸は城の要、城主利長の居館や米蔵塩蔵、本丸門、番所などがあった。

敷地の北西側半分は本丸広場で、残りは射水神社の境内。

本丸広場は以前は野球場だったが昭和50年(1975)公園指定100周年を記念して芝生広場に変わった。

周囲には利長像をはじめ数多くの句碑、歌碑、彫刻などがあり、広場のイベント会場として利用され、市民の憩いの場となっている。

 

 

 

 

朝陽橋
本丸と小竹薮をつなぐ内濠にかかる赤色の太鼓橋、公園名物の一つ。

明治11年(1878)にはじめて架けられ、現在のものは昭和43年(1968)県指定公園を機に造られた。

古図には「橋台石垣」の記録があり有事に備え可動式の橋があったとも推察されているが確かなことはわかっていない。

 

 

 

朝陽の滝
朝陽の滝は昭和6年県内で初めて完成した高岡市上下水道事業の通水記念として竣工したもので、一時断水状態になっていたものを、昭和52年水濠の浄化にも役立てようと、水濠の循環による滝として復元したもの。

この滝は中の島を望む朝陽の浜の景観とともに古城公園の名勝のひとつとなっている。

 

 

 

三の丸跡

三の丸のこの場所は今枝民部直恒の屋敷があったので民部丸と呼ばれていた。

三の丸は腰曲輪ともいわれ、城の搦手口、すなわち裏門を守る重要な郭。

現在は高岡市民体育館、茶屋、公園案内所などがある。

 

民部之井戸
高岡城には城中の飲水用として数箇所の井戸が掘られていた。

三の丸跡に残る築城当時から続く最も大きな井戸。

 

 

 

内堀

水掘は高岡城の総面積の約3割を占める。


北内堀の景色。



 

 

100名城スタンプ
設置場所 高岡市立博物館(鍛冶丸跡)
 

 

 

 

パンフレット
高岡古城公園散策ガイド


 




 

 

 

【名称】 高岡市立博物館
【住所】 富山県高岡市古城1-5
【電話番号】 0766-20-1572
【開館時間】 9:00~17:00(入館は16:30まで)
【入館料】 無料
【休館日】 月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始

※ 2015年11月15日時点の情報です


 

 

日没との戦いで時間を掛けて見られなかったのが残念でした。

築城当時のまま残る「土塁」「堀」「石垣」を見にいつか再登城します。

富山県コンプリート☆