日本100名城 8.仙台城<18/100> | Precious days*:..。♡*゚¨゚゚・
    仙台城 -奥州の覇者伊達政宗が築いた天険の城-

     

     

    別名 青葉城
    所在地 宮城県仙台市青葉区川内
    城地種類 山城→平山城
    築城年代 慶長5年(1600) 
    築城者 伊達政宗
    主要城主 伊達氏
    文化財史跡区分 国指定史跡(一部、天然記念物「青葉山」と重複指定) 
    天守の現況・形態 

    仙台城は、鎌倉時代創築と伝えられる千代城があった青葉山に伊達政宗が慶長5年(1600)から2年あまりで築城した。

    城の四方が広瀬川の渓谷や断崖などに囲まれた天然の要塞である。

    天守は築かれなかったものの、本丸は62万石の大名にふさわしく、桃山文化の集大成ともいうべき本丸御殿の建物が建ち並び、その内部は数多くの美術品で飾られていた。

    政宗の死後、二の丸御殿がつくられ藩政の中心となった。

    しかし、こうした建物群も明治時代に破却され、さらに昭和20年(1945)の空襲で焼失してしまった。

    平成になって本丸跡の調査が進み、北面の高石垣が修復された。

     

     

     

    目次   

     

    ○本丸跡

    ・ 大広間
    ・ 本丸北壁石垣

    ・ 本丸北壁石垣モデル

    ・ 伊達政宗公騎馬像

     

    ○二の丸跡
    ・ 大手門跡

    ・ 大手門脇櫓
    ・ 大手門北側の土塀

     

    ・ 100名城スタンプ

     

    ・ パンフレット

     

    ○まとめ

     

     

     

    本丸跡

    本丸の実際の土木工事は慶長6年(1601)から開始され、整地作業、石垣の構築、建物建築工事がすすめられ、同年4月には建築途中の城へ政宗公自身移る。

    仙台城の場合、天守閣は築かれなかった。

    家康公に敵意のないことを示すため建造を遠慮したともいわれている。

    代わりに城の中心施設として、俗に「千畳敷」ともいわれる広大な「大広間」がつくられた。  

    他にも本丸には、京都の清水寺の舞台に似た、東側の崖にせり出すようにして建てられた「懸造り(かけつくり)」や、艮櫓(うしとらやぐら)・巽櫓など(計5つ)の櫓があり、城下からの眺めはまさに威容を誇っていた。  

    慶長6年に政宗公が架けた仙台橋の擬宝珠(ぎぼし)の銘文には、「仙台橋 仙人橋下 河水千年 民安国泰 孰与尭天」とある。

    神仙世界と同じように仙台藩とその民が、永遠に平和に安らかに栄えるようにとの祈りを込めて政宗公が仙台城と城下町の建設にあたったことがわかる。

    現在は建物などの遺構は失われ、本丸北壁の石垣、本丸西側の堀切や土塁に往時を偲ぶのみとなってる。

    本丸跡には宮城縣護國神社、仙台城見聞館、伊達政宗公騎馬像などがある。

     

    「本丸跡」全景 復元CG

     

    (青葉城 本丸会館HPより)

     

     

    大広間
    「大広間」外観 復元CG

    大工棟梁として京都より「梅村彦左衛門・彦作」父子が招かれ、彦左衛門が紀伊よりよびよせた天下無双の匠人「刑部左衛門国次」とともにつくった。


    (青葉城 本丸会館HPより)



    「大広間」内部 鳳凰の間 復元CG

    内部の豪華絢爛なる桃山様式の障壁画・襖絵は狩野派の絵師「狩野左京」が担当した。  


    (青葉城 本丸会館HPより)



    「大広間」平面略図と部屋の名称


     

    本丸北壁石垣
    本丸北壁石垣修復工事に伴う発掘調査の結果、現在見えている石垣の内部から古い時期の石垣を発見し、三時期にわたる石垣の変遷がわかった。


     

    本丸北壁石垣モデル
    Ⅰ期

    築城期(16世紀初め)に造られた野面石を使用した石垣





    Ⅲ期

    寛文年間(17世紀後半)の地震以降修復された切石積みの石垣


     

    伊達政宗公騎馬像
    初代の伊達政宗公像が完成したのは昭和10年(1935)。

    政宗公の没後300年を記念し、青年団が寄付を募ってつくられた。

    制作を任された宮城県柴田町出身の彫刻家、小室達は、4メートル以上ある大きな銅像をつくるため、東京の自宅のアトリエを新築し、およそ2年かけて、甲冑や馬などを忠実に再現した。

    2代目は昭和28年、物資が不足する中、セメントでつくられた真っ白な像だった。

    戦後に進駐軍の拠点が置かれた仙台城で、戦争を連想させないようにと扇子を手にした裃姿で「平和像」とも呼ばれた。

    それからおよそ10年がたち、高度経済成長期に入ると、仙台市の観光協会が初代の政宗公像の復元に乗り出す。

    完成したのは昭和39年(1964)、前回の東京オリンピック開幕の前日だった。





    【伊達政宗(1567-1636)】

    安土桃山〜江戸時代初期の武将。

    初代仙台藩主 18歳で家督を継いで陸奥(福島県)伊勢郡を領有し、二本松の畠山氏を討った。

    佐竹・結城氏らの強力な連合軍の侵入を撃退し、天正17年(1589)蘆名氏を滅ぼし会津を領有した。

    天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原後北条氏を攻めると、対抗を決意したが、小田原陣中で秀吉に服属。

    慶長5年(1600)関ケ原の戦いでは東軍に属し上杉景勝を攻め、功により62万石を与えられた。

    慶長18年(1613)には支倉 (はせくら) 常長をローマに派遣し、また和歌・茶道にも長じた。


     

     

    二の丸跡

    二代藩主伊達忠宗公により造営。

    寛永15年(1638)5月4日着工され、翌寛永16年(1639)12月に落成。

    以後明治に至るまで藩政の中心であった。

    二の丸の正門である大手門を入りその奥の詰門を抜けると、藩主が住む御殿、能舞台、庭園などがあった。

    二の丸の規模は東西310メートル、南北200メートル。

    明治に至り、明治2年(1869)に勤政庁が置かれ、明治4年(1871)に東北鎮台(後の陸軍第二師団)が置かれた。

    明治15年(1882)9月7日、追廻で行われた西南の役(西南戦争)戦没者招魂祭の花火が不発のまま落ち、その火災により、表舞台楽屋以外の二の丸遺構はすべて焼失。

    残った表舞台楽屋も戦災で焼失。

    現在は東北大学川内キャンパス(川内南キャンパス)となり、文系学部(文学部、経済学部、法学部、教育学部)が入る。

    仙台城は平成15年(2003)に国史跡となっているが、二の丸についても平成22年(2010)に一部が国史跡に追加指定されている。

     

    大手門跡
    仙台城の玄関口となる大手門は、2階建て、瓦葺きの豪壮な建物で、大手門の守りを固める大手門脇櫓(総白壁造り)とともに戦前は国宝に指定されていた。 

    しかし昭和20年(1945)の仙台空襲で大手門北側にある土塀(仙台城に残る唯一の建造物)を除いてすべて焼失。

    大手門と本丸の間、道が大きく屈曲する部分に中門もあったが、大正9年(1920)に取り壊され、現在は石垣のみ。



    焼失前の「大手門」と「脇櫓」

     


     

    大手門脇櫓
    大手門隅櫓ともいう。

    大手門と共に昭和6年(1931)国宝に指定されたが、大手門と共に戦災により焼失。

    昭和42年(1967)に民間の寄付により外観復元され、現在は唯一復元された建造物である。

    しかし令和2年の調査で焼失前の物とは形状が異なる事が分かり、大手門の再建と一体的に焼失前の形に再建されることになった。

     


     

    大手門北側の土塀
    昭和20年(1945)の仙台空襲で唯一残った建造物。

    焼けて石が変質している。


     

     

     

    100名城スタンプ
    設置場所 仙台城見聞館展示コーナー

     




     
    【住所】 宮城県仙台市青葉区川内1-11
    【電話】 022-214-8544(仙台市教育委員会文化財課)
    【開館時間】 9:00~17:00
    【休館日】 年中無休

     

    ※ 2014年11月14日時点の情報です

     

     

     

    パンフレット
    仙台城見聞館

     

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    仙台歴史ミュージアムネットワーク(歴ネット)シート

    仙台城見聞館













































     

     

     

    城郭の遺構が数多く残る仙台城。

    今回は車で本丸跡と大手門跡のみの見学だったので、次回来た時は下から徒歩で攻め上がりたいと思います。

    宮城県コンプリート☆☆