長篠城 -武田軍の猛攻に耐え抜いた堅城-

 

 

別名  ―
所在地 愛知県新城市長篠字市場22-1  
城地種類 平城
築城年代 永正5年(1508)
築城者 菅沼元就
主要領主 菅沼氏、奥平氏
文化財史跡区分   国指定史跡


長篠城は、豊川(寒狭川)と宇連川(三輪川)との合流点近くの段丘上にあって要害の地を占め、信濃・三河間の重要な戦略拠点であった。
 

永正5年(1508)に菅沼元成が今川氏の命をうけ築城した城で、天正元年(1573)には徳川家康が手中におさめ武田軍の来襲に備え作手の奥平貞昌らを城代に任命した。
 

天正3年(1575)武田勝頼が15,000の兵を率いて、この城を囲んだので、500人の兵とともに籠城した城主奥平貞昌は鳥居強右衛門を介して、岡崎城の徳川家康に援軍を要請した。
 

この援軍の求めに応じ、織田信長・徳川家康の連合軍が連吾川で勝頼軍を破った。(長篠合戦)
 

天正4年(1576)前年の長篠城の攻防戦で城が大きく損壊したこともあり、新城城を築城し、長篠城は廃城となった。





 

 

 

 目次

 

  本丸跡

 本丸土塁と内堀

 久邇宮良子女王「御手植の松」

 

 

 矢沢

 

 不忍の滝

 

 

  帯郭跡

 

 

  弾正郭跡

 

 

  野牛郭跡

 物見櫓跡

 

 

 鳥居強右衛門磔死之趾

 

 

 馬防柵

 

 

 100名城スタンプ

 

 

 パンフレット

 

 

 まとめ



 

本丸跡

▽上に突き出した断壁の近く(やや西側、寒狭川近く)に「本丸」を置いている。










 

本丸土塁と内堀
台地状に平野が広がっておりそのままでは守りが弱いので、しっかりとした堀が掘られ、城の東側を守っていた。

「本丸」のすぐ北側。

 


 

 

 

久邇宮良子女王「御手植の松」
この黒松は、久邇宮良子女王殿下が大正7年(1918)3月17日、父邦彦公王、母俔子妃の3人で設楽原決戦場視察の後、長篠城址を視察し、御台臨記念として植えた松である。

当時の記録によれば、3人は城址で桑園になっていた本丸に散在する焼き米を拾い、鳥居強右衛門が脱出した場所に立ち往時を追懐していたとある。

良子女王殿下の服装は、この時のお召列車の車掌であった浦野金蔵氏の記録によると「矢がすりの和服」であったという。

 


 

 

矢沢

 

 

 

不忍の滝
本流の豊川(寒狭川)に落ち込む滝が少しずつ後退してできた滝で、侵食された深い谷は、長篠城西側の天然の堀の役目をしている。

このあたりは1.1キロほど北を通る大断層・中央構造線の活動によって岩(三波川変成帯の緑色片岩や黒色片岩)がくだかれて弱くなり深い谷ができやすくなっている。




 

帯郭跡

「本丸」の北側。






 

 

 

弾正郭跡

「帯郭」の外側。




 




 

 

 

 

野牛郭跡

「本丸」の西側。



 

 

 

飯田線の為に「本丸」と寸断されてしまった。
 

 

物見櫓跡

 

 

 

牛渕橋から見る長篠城
 


 

 

牛渕橋から見る豊川(寒狭川)
 

 

 

 

鳥居強右衛門磔死之趾
5月14日、武田軍は総攻撃をしかけた。

城中の食料はあと4、5日分だけ。

その夜、鳥居強右衛門(とりいすねえもん)は、徳川家康へ救援を依頼する使者として長篠城を抜け出た。

 
梅雨の時、増水の寒狭川へおりて豊川を下ること4キロ。

15日朝、かんぼう山で脱出成功の狼煙をあげ、岡崎城へ走った。

岡崎には援軍の織田信長も到着していた。
家康、そして信長の前で城の急を訴え周りの人々も感動した。

使命を果たして休養をすすめられたが、彼はすぐ引き返した。

 
16日の朝、再びかんぼう山で「援軍きたる」狼煙3発。
 
そして長篠城の対岸まできたが、厳重に警戒する武田軍に捕らえられた。
 
武田軍から「援軍は来ない 城を開け 武田軍は厚くもてなす」と呼ばるよう説得されて長篠城二の丸近くに立った。
(この時城は、本丸と二の丸だけ残る)

 
しかし「援軍は来る この眼で見てきた あと2、3日堅固に守れ」と叫んだので、対岸の篠場野の地で磔にされた。

鳥居強右衛門その時36歳。

18日、織田・徳川38,000の軍は設楽原に到着して陣をしいた。





 





 
【名称】 鳥居強右衛門磔死之趾
【住所】 愛知県新城市有海岩城(長篠城対岸)

※ 2015年4月18日時点の情報です


 

 

馬防柵
天正3年(1575)「設楽原の戦い」に用いられた馬防柵を再現したものである。

連吾川に向かって右側の下手に徳川軍のものを、左側の上手に織田軍のものを、区別して構築してみた。

両者の様式には、攻口(出入り口)の設け方に違いが認められる。

当時、天下無敵とうたわれた武田の騎馬隊をこの柵で防ぎ止め、その内側にあって鉄砲で狙い撃ちにするために造られたもので、延長2キロメートル余りに及んでいた。

決戦の正面となったこの連吾川沿いに三重の柵を構え、背後の弾正山を越えた西側を流れる大宮川沿いには、さらに一重の柵を設けて万一に備えていた。

織田・徳川連合軍にとっては、勝利を呼ぶ重要な布石であり、逆に武田軍にとっては、勝利を阻む痛恨のしがらみとなったのである。
 













 
【名称】 長篠城 馬防柵
【住所】 愛知県新城市大宮字清水

※ 2015年4月18日時点の情報です


 

 

100名城スタンプ

設置場所 長篠城址史跡保存館
 


 

 

パンフレット

設楽原歴史資料館・長篠城址史跡保存館


 







 

 

 

長篠城址史跡保存館でスタンプを押してから、「本丸跡」とその周辺を散策しました。

「本丸跡」に残る「土塁」と「空堀」は状態良く残っていました。

もっと時間を掛けて巡ると分かったのかもしれませんが、他の遺構は残っていないところがほとんどのように思えました。

「鳥居強右衛門」この人の活躍がなければ、後の戦、時代はどうなっていたのか...

この時の勇士が500年以上たった今日まで語り継がれているのは凄いですね。