日本100名城 46.長篠城 再訪【前編】はコチラ

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 目次

※過去訪問重複箇所は赤字

 

  帯郭跡

 糧庫跡

 林藤太夫高英屋敷跡

 さかさ桑

 

 

  巴城郭跡

 

 

  瓢郭跡

 搦手門跡

 

 

  家老屋敷跡

 鳥居強右衛門 呼びかけの所

 

 

  弾正郭跡

 

 

  大手郭跡

 大手門跡

 蟻塚(市指定史跡)

 

 

 鳥居強右衛門磔死之趾

 

 

 パンフレット及び資料

 

 

 まとめ

 

 

 

糧庫跡
攻城戦により、糧庫の焼失で食料を失い、城落必至の状況に追い詰められるきっかけとなった場所。

瓢(ふくべ)郭の側にあったという説もある。
 

 

 

林藤太夫高英屋敷跡
元禄2年(1698)、一色直興が3,500石で構えた陣屋。

安永元年(1772)~文政元年(1818)弓術で名をはせた林藤太夫高英が代官を務めた。
 





現在は民家になっている。

 

 

さかさ桑
長篠の戦の落武者が、寒狭川の中流にある小松集落にさしかかって、民家の庭に杖をつきさした。

土地の者はその剛力を見てただものではないと思い、その杖には手を触れなかった。

落武者は武田勝頼だった。

杖からは桑の芽が出たが下に向かってだけ伸びるので「さかさ桑」と名付けられた。

近年それが枯れてしまったので、土地の人が惜しみ新しいのをこの土地に植えた。

 



「さかさ桑」の木がどれか分からず...

案内板近くの木を撮影してみましたが、違うかな?




所々に、屋敷跡?の石垣が残っていました。
 



 

巴城郭跡

「帯郭」が二の丸、「巴城郭」が三の丸の役割。

土塁や堀は現存していない。




 

瓢郭跡

「巴城郭」の東側に位置していたのが「瓢郭」で、この東端の沢を利用して搦手門が設けられた。

 

搦手門跡
城の裏口門。(大手門が入口)
 





分かりにくい場所にある...

 

 

 

家老屋敷跡

奥平氏に仕えた家臣は、城の近くに住んでいた。

しかし、個々の屋敷を与えられたのは上級武士だけだった。

当時は「二の丸外堀」の辺りで現在は民家となっている。



 

 

 

 

鳥居強右衛門 呼びかけの所

「家老屋敷跡」のすぐ右に看板が建っている。


この場所から城に向かって「援軍は来る!」と叫んだ。

 





「長篠城址・史跡保存館」から見てみると、目と鼻の先!

こんなに近くまで武田軍が迫って来たことを考えると、落城寸前だったということがよくわかる。

 

 

 

弾正郭跡

「本丸」の北側に位置し、矢沢川を挟んで「弾正郭」がある。

往時は堀で囲まれていたが、石垣はなかった。

戦を終えて帰還した際に、織田弾正忠信長(官職名)が入場した郭だった可能性があることから、この名がついたともいわれている。


 



 



 



 



 



 



 

現在は民家が建っています。

 


現在ある石垣は後に造られたか!?



 

大手郭跡

「巴城郭」と「家老屋敷」の北側から囲んでいるのが大手郭。

現在は国道151号線が横切る。

 

 

大手門跡

城の入口の門。

 



 

この日難易度MAXの場所でした!


「長篠城址・史跡保存館」の看板では見えにくいですが、





サークルKは宝くじ売り場に代わっていました。

何もありません。

ただ、実際の「大手門」はここから少し奥に入った所という情報を得たので宝くじ売り場の奥の方まで行ってみると、





工場と畑だけでした。

 

 

蟻塚(市指定史跡)

長篠合戦の死者を葬った所で、ここから蟻の大群が出て村人を苦しめたので、碑を建てて供養し、蟻を封じたと伝えられている。

安永5年(1776)建立。

 



住宅地すぎて、撮影を躊躇うほど!

 

 

 

牛渕橋から見る長篠城

 



 

天然の要害だったことがよく分かります。

 

左が寒狭川(豊川)、右が宇連川(大野川)。

 


 

 

鳥居強右衛門磔死之趾
長篠城を眼前にする有海原の篠場野に建っている。

大正元年に、実際の磔の場所に碑は建てられていたが、昭和44年の土地改良で現在地に移動した。
 



鳥居の行動がきっかけとなり、戦いの舞台は長篠から設楽原へと移っていく。




鳥居強右衛門(1540-1575)

「長篠合戦」で織田・徳川連合軍の勝利の陰には鳥居強右衛門という一人の武士の活躍があった。

岡崎城で信長に、長篠城に38,000の援軍を出してもらえる約束を取りつけた鳥居は、信長と家康に休んでいくように言われたのも断って引き返す。

長篠から岡崎までの距離は片道65キロ、往復で130キロも鳥居は走った。

長篠城を包囲している武田は精鋭を15,000も率いているが、倍以上の織田・徳川連合軍なら間違いなく彼らを蹴散らせ、長篠城も陥落せずに済むだろう。

そんな希望と期待を打ち砕いたのは、武田軍による捕縛だった。

彼が捕まった原因は、往復の際に上げた烽火だったという、なんとも皮肉なものだった。

16日の朝にも来た時と同じ烽火を上げてから長篠城に入ろうとしていたため、城から歓声が上がり、陥落しないのに武田軍の武士達も気づいていたのだ。

鳥居を取り押さえた勝頼は、怒ると同時に彼の勇気ある人柄と行動力に惚れ込み、

「援軍は来ないから降参しろと言え。そうすれば、命は助けるし厚遇も約束しよう。」

と鳥居を説得した。

長篠城を陥落させる上に、勇将も得られるのだから、兵法の名手だった勝頼らしい一石二鳥の計略といえる。

敵の大将直々に称賛の言葉と厚遇を与えられたら、寝返りが当たり前の戦国時代では承知するのが常識でもあった。

鳥居も「分かりました」と一旦承知こそするが、彼の腹は決まっていた。

程なくして長篠城門前に突き出された鳥居は、勝頼に言われたのとは正反対に

「援軍は2、3日もあれば来る。それまで耐えてくれ!」

と大声で叫び、貞昌を始めとした奥平軍の士気を大いに奮い立たせた。


降伏しなかった鳥居はこの直後、勝頼の命で磔もしくは斬首され、数え年にして36歳の若さでこの世を去った。




天正3年5月14日(1575年6月22日) 野牛門の不浄口から脱出

武田軍の鳴子網を潜ってかわし、豊川を4キロほど下がって広瀬で上陸

鷹峰山で烽火を上げ脱出成功を知らせる

5月15日 岡崎城へ入城

5月16日 烽火を上げ援軍を知らせるも武田軍に捕縛される



 
【名称】 鳥居強右衛門磔死之趾
【住所】 愛知県新城市有海岩城(長篠城対岸)

※ 2020年3月12日時点の情報です


 

 

パンフレット及び資料
設楽原歴史資料館・長篠城址史跡保存館

 


 


 

 

 

 

長篠城址案内
 

 


 

 


 


 

 

 

 



 




長篠戦図
 


 

 

 


 

 



長篠合戦かく戦へり
 

 



合戦地史跡巡り
 

 



長篠の戦い当時の将士年令
 




戦国時代 今日は何の日
 

 



亀姫
 

 



亀姫のこどもたち
 



 

保存館だより 城址の風(第4号)

 

 



保存館だより 城址の風(第7号)
 



 

濱松 秋葉神社だより おがたま 参
 

 

 

 

2回目の登城。

満を持して長篠城の御城印が発売になったということでやってきました。

前回見ていない「野牛郭」や「大手門」や「搦手門」まで見学。

やはりここに来ると「鳥居強右衛門」。

今回はより英雄の足跡を辿れたと思います。