最近、突然のもののけ旋風に吹かれてるんですが、
育児してると、本当に参ることが度々。
子の自我と私の自我で混線中だ。子のありのままを尊重できない。
どうしてもこうじゃないとを押しつけて、あとから後悔を繰り返しの苦しさ。
これじゃあ、わたしのありのままを拒絶した親と同じだと気づく。
子供が思い通りにならないと苛立ちをぶつけてしまう。
怒りを上手に隠してもコントロールする時点で子供は気づいている、
本当は自分の不満を子供にぶつけてるだけだって。
子供は所有物ではありません。とはいったものの、
所有物扱いせざる得ない社会のシステムがあるジレンマ。
母子手帳がそう、予防接種もそう。
義務ではないのに、受けさせないと指導が入る。
別に反ワクチンでもなければ、免疫任せの自然派でもない。
そんな確固たる主義主張がある訳ではなく、ただ面倒くさいのだ。
子供のためにやる事が多くて。
なんだよ結局子供をコントロールしてんじゃん。
子供を管理しても、子供は所有物じゃありません。
って言動不一致が気持ち悪くて仕方ない。
いいたい事わかるけど、これ捌け口ないと皺寄せは子どもにいくよ。
家庭内でできないものが社会でできるはずもなく、その世相が今の日本に現れてますね。そもそも日本は近代化をする過程で旧暦を手放し新暦を導入した。ありのままの体感と数字、データとしての暦とがズレているのだ。どうしても所有ありきの意識になってしまう。で、ありのままを体感する価値を見失う。所有と消費をコントロールする社会の限界だ。
良い親にもなれず、毒親にもなりきれない、哀れでみにくいわたし。
ここで言うみにくいは、外見上のあさましさというより、見難い、見えづらい、方の醜いです。
私だと思っているのは自我、本当の私じゃないのだ。
自我が、見たくない、隠しておきたいもののうらに潜むのが、もののけのような、明け透けだからこそ醜く、野生的で、照れ臭いほど生々しい、狂おしく求める愛の姿。が真の心。
つまり、真実であること。
自然=ありのまま。
海、山、川、自然を観て美しいと感じるのは、ありのままに映し出してるから。
勿論、人の手が入ってコントロールされているからでもあります。自我がコントロールすることさえも折込済み。人工的で不自然だったとしても、それも繁栄のうち、枯れ木も山の賑わいなのだ。自我さえも凌駕する、追い抜いていける本当の自分の存在に気づき、感謝しようじゃないのさ。
(こだま🚅とひかり🚄、先行ってるね by のぞみ)
