今宵のことはいったいどうしたというのであろうか、と中君は思案しながら身を横たえました。
衣をかついでいると弁の御許がやってきて問いかけます。
「殿はもうあちらにいらっしゃいましたか。はて、中君さまはどちらに行かれたのでしょう?」
どうやら自分を姉だと思っているようです。
それではやはり薫君は姉上と逢おうとしてこちらにお越しになったのだわ。
姉は賢しくもそれを逆手にとって自分と薫君を結び付けようとしたのだ。
そう考え至るにもあまりなこと、と中君は姉を恨まずにはいられません。
それにつけても薫君の男らしい優しさがありがたく、さらに慕わしく思われる中君なのです。
しばらくすると屏風の裏側から姿を現した大君が深い溜息をついたのを背中に聞きましたが、中君は振り返ろうともしませんでした。
大君はほうほうの体で屏風の裏から這い出たものの、額髪が汗まみれで貼り付いているのもみっともなく、自分の目論見通りにゆかなかったことも情けなく感じておりました。
わたくしばかりではなく中君まですっかり姿を見られてしまった。
浅はかな女房たちの差し金で思わぬことになってしまったものだ、と中君にも申し訳なく思われるのです。
一方では薫君があの美しい妹の姿を目の当たりにしてまでも揺るがなかったことに感動を覚えるのでした。
それほどに自分を想う心の方が勝っているのかと思うと嬉しくて、そんな喜びを覚える矛盾した心に惑うて深い溜息を漏らしたのでした。
薫はといいますと、そのまま部屋に戻る気も失せて、このやるせない気持ちを誰かに吐き出してしまいたいと弁の御許を訪れました。
「今回ばかりは恥じ入ったよ。ここまで嫌われていたのにも気付かなかった己が愚かしい」
一部始終を聞いた御許は大君の可愛げのないあしらいにたいそう君がお気の毒でなりませんでした。
「何しろ頑な御方ですので」
「そうだねぇ。今宵のことで大君の心が私にはないことがよくわかったよ。もう懸想する心は宇治川に沈めてしまおう。どこぞの宮はお気軽にこちらに文を寄せているようだけれど、なるほどどうせならご身分の高い宮さまのほうがよいに決まっている。私は掌で踊らされていただけだというのが思い知らされた。こんな恥ずかしいことは人に知られたくはない。言うてくれるなよ」
薫は弁の御許にきついあてこすりを言ってそのまま宇治を離れました。
身分高い宮の方を望むような大君ではありませんが、薫君の自尊心を打ち砕かれたような傷心をどうして慰めることが出来ましょう。
どちらにしてもお気の毒なこととなり、女房たちもみな意気消沈としたのです。
大君は薫が早くに京へ発ったと聞いてこのまま中君はおろか自分も見捨てられるのでないかと気が気ではありませんでした。
「弁をこちらに呼んでちょうだい」
薫君を探ろうと思えばやはりこの老い女房に頼るしかないのです。
「お呼びでしょうか」
「薫さまは何故早く発たれたの?挨拶もされないなんておかしいわ」
弁の御許はこの姫の思い遣りのない傲慢な言葉に憤りを感じましたが、それとも気付かぬ愚かさを不憫に思いました。
「昨日お越しになった折から対面を拒まれて、ですもの。薫さまは御身を慮って去られたのでしょう」
確かに御許のいう通り、お越しになった時の挨拶さえちゃんとお受けしなかったのは自分であると今更ながらに悔やまれるのです。
「薫君は中君とお逢いになったようだけれど、娶ってくださるでしょうか」
そのような自分勝手さに鼻白む御許はつい意地悪く答えてしまいました。
「御心配なさらずとも薫君はこれまで通り姫君たちの生活の面倒をみてくださいますわ。それよりも薫さまは仰っておりました。大君さまが望まれるよう身分の高い匂宮さまの方を婿にされるがよい、と」
「まぁ、そのようなこと。わたくしは」
あまりの言われように大君は言葉を失いました。
薫君が本当にそのように思われたらばなんとも恥ずかしいこと、と目の前が暗くなるようです。
ちょうどそこへ薫君からの手紙が届けられました。
添えてあるのは先の方だけが色づき、根元はまだ青いままの楓の一枝。
手紙は結び文などのように軽々しくはなく、しっかりと畳んでありました。
おなじ枝を分きて染めける山姫に
いづれか深き色ととはばや
(山姫はこの枝を片方だけ染めました。同じ枝を分かつ姉妹であれど、どちらに私が心を寄せているかおわかりでしょう)
自制されつつ、恨みを滲ませた手紙はこれが最後のものであるように思われて、大君は思い悩みました。
そうしてわたくしも心は変えられない、と毅然と返しました。
山姫のそむる心は分かねども
うつろふ方や深きなるらむ
(山姫の心はわかりませんが、あなたの御心は紅に染まる妹の中君の方に寄せられているのではありませんか)
それから数日後、弁の御許の元に薫君から中君を娶る意志を示した手紙が届けられました。


