八の宮さまが亡くなられたというのか?
山の阿闍梨から届いた手紙はまるで現実のことと思われず、薫は最初の一行を読んだまま体を強張らせました。
思考はそれ以上先に進むことを拒絶し、何も考えることができません。
ただ宮が最後に見せた穏やかな微笑みが脳裏に甦るばかりです。
一瞬とも永遠ともとれるほどに時間の感覚が麻痺して、はたはたと文の表にこぼれ落ちる涙に我を取り戻したのは深更の頃でした。
月もなく暗闇にほんのりと灯が揺らめくのを薫は視界の隅に捉えました。
「惟光、惟光はあるか?」
迫る感情の渦に呑み込まれていた薫は八の宮さまを懇ろに送って差し上げることが最優先であるよ、と現実に引き戻されたのです。
「殿。お呼びでございますか」
「私はあまりのことに目が塞がってしまっていた。この上は御仏の元へ旅立たれた八の宮さまを弔うことが先決であったのに、なんとしたこと。阿闍梨と山寺へ特別なはからいを用意せよ。姫君たちはお力を落とされてそうしたことまで気が回らないであろうからな」
「はい、差し出がましいようですが、すでにそのように手配致しました。」
「そうか、それはありがたい」
「殿、姫君たちにお悔やみの文をしたためられては如何ですか?私が使者となって発ちましょう」
「そう言ってくれるか、惟光よ。では頼むぞ」
薫は心からのお悔やみを短くしたためました。
「この返事はいらぬ。私のほんの気持ちであるからな」
「心得ておりますよ」
そうして主人を励ますように笑う健気な側近に薫は感謝の念を感じずにはいられません。
「惟光、お前がいてくれてどれほど助けられることか。私が心を許せるのはお前しかおらぬのだ。これからも私を支えておくれ」
「何を仰せです。敬愛する殿の為ならばたとえ火の中、水の中、の惟光でございますよ」
乳兄弟というものは得てして濃い情愛で結ばれるものですが、この薫と惟光は殊更に深い絆で結ばれております。
薫が幼い頃に乳母であり惟光の母である人は亡くなってしまいましたが、仲の良かった二人は寂しさを埋めるように睦まじく成長したのです。
惟光は薫の傍らでじっとその苦悩を見つめてきました。
尊い君が心に大きな傷を抱えていたことを誰よりも知っているのです。
この主人の為ならば、と気持ちを新たに馬を駆り、宇治へと向かいました。
御堂に籠った薫は数珠を握り締めながら八の宮の御霊が安らかでありますようにと祈りを奉げました。
実の父(柏木)とは死別し、物心つくまえに源氏も母・女三の宮も仏門に帰依した薫にとって今回の宮との別れは肉親との別れに等しいものでした。
「会うは別れというものがつきものでございましょう」
宮の御言葉が今更ながらに苦しく胸を締め付けますが、だからといって宮と巡り会えたことに微塵の後悔などはないのです。
人は儚いものでございます。
その思いは今回の別れで薫には痛いほどに感じられたことでしょう。
それゆえに時を無駄にしてはならない、という焦燥が薫の運命を大きく動かしてゆくのです。


