とうとう大晦日(おおつごもり)の日がやって来ました。
あの紫の上の手紙を焼いたことで上を偲ぶものは何ひとつ無くなってしまったせいか、源氏の顔にはもはや未練はないようでした。
否、それは諦めにも似たようなものでしょうか。
御仏に仕えるからといって悲しむ心も愛おしむ心も失くすわけではないのですから、惜しむ気持ちも消すことはできないのです。
この日は年の終わり、追儺をして邸から悪しきものを追い払う日です。
三の宮はすでに主人らしく、追儺のことなどを細かく女房たちに指図しております。
「豆はよく炒ったものでなくてはならないですよ。鬼やらいですから、鬼が怖れをなすように高い音をたてて、まくんですよ」
そう言って、走り回る姿が可愛らしい。
この愛らしい宮を見るのも今日で最後かと思うと惜しむ気持ちもひとしおですが、念願の出家は紫の上に近づくことでもあると感じると心が静かに凪いでゆく君なのです。
物思ふと過ぐる月日も知らぬ間に
我が世も今日やつきぬる
(物思いの為にあっという間に今日という日になり、私のこの世との縁も今日までということになってしまったよ)
正月朔日には例年通りに参賀の人々が六条院に集うでしょう。
源氏はそうした方々を鄭重に接待するよう申し置いて二条院へと戻りました。
新年を迎え、夜が明けきらぬ時分、二条院の前に二つの人影がありました。
僧形の少年を供なった源氏です。
その姿もすでに剃髪されておりました。
遠い雲居にある紫の上よ、私は今日新たに生まれたよ。
そなたを想うのもこれが最後となろう。
「お前までつきあわせてすまぬな」
源氏は傍らの少年に語りかけました。
「いいえ、父と母は私が徳の高い僧になることを望んでおりますれば。源氏の院にお供できるとはこの上ないことでございます」
「もう院ではない、ただの老僧だ。よいな」
「はい」
辺りは静寂に包まれて、綿のような雪が舞い降りました。
それがまるで紫の上の慈悲のように思われる君ですが、振り切るように二条院を後にしたのです。
二つの影がどこに向かったか、それは誰にもわかりません。
夜が明ける頃には清浄な世界だけがそこにあるでしょう。
光る君と呼ばれた貴人はこうして世を去ったのでした。
源氏が姿を消してはや数年が経ちました。
今政治を動かしているのはかつて髭黒の右大将と呼ばれた御方と源氏の息子である夕霧です。
国は豊かで天下泰平、世は移り変わり、かつて光る君と呼ばれた御方がいらしたことを知る者も少なくなりました。
しかし宮中に仕える女官たちの中には長寿を自負する御方もおられるようで、
「今もてはやされる公達など薄っぺらい。その昔、光る君と呼ばれた源氏の君はそれはもうその名の通りに美しくて尊いご様子でしたのよ」
と、今でも鼻息荒く達者なご様子です。
源氏がひっそりと世を捨て、一修行者として己を律しておられたので、その行方を知ろうとする者はおりません。
そうした源氏の振る舞いを潔しと尊重したのです。
かつての源氏のライバルであったかの致仕太政大臣は、「まったく源氏という男は恰好ばかりつけて、残された私の面目がたたぬではないか」と強がりながら泣いたとか。
こうして世が移り変わるのも理なれば忘れ去られてゆくのもまた必定。
類まれなる尊き御方と言われた人の苦悩に満ちた生涯も悠久の歴史にはほんの瞬きばかりのことでございましょう。
所詮この世はかりそめの
水泡のごとく儚きを 昔なりけり
この『源氏物語』は私がアレンジして書いているもので、人物描写なども私の想像などが重きを占めています。
また失われた巻についても想像で描いているので、オリジナルのものとは違います。
お問い合わせが多いのでこの場にて・・・/ゆかり


