桐壷更衣が遺した若宮は更衣の母である祖母が手元に引き取りましたが、更衣の死によって心持も暗く沈みがちになり、この祖母も若宮が六歳の時に儚く身罷ってしまいました。
賢い若宮は祖母との別れを悟り大層悲しみましたが、父帝が慰めそのまま内裏へと連れ帰ったので、異例ではありますが若宮は父の元で暮らすことになりました。
若宮の佇む様子は愛らしさとともに美しく、時に寂しげに憂いを含む瞳を見ると桐壷更衣に残酷なことをした女御や更衣たちもこの皇子を憎むことはできませんでした。
若宮が七歳になった頃、そろそろ手習いをと読書の儀を整え学問を始めさせると、若宮の聡明なことに父帝やまわりのものは驚きました。
漢文は言うに及ばず、笛、琴などの音楽の才能、絵も上手にお描きになる。
すでに次の東宮(=皇太子)は弘徽殿女御(こきでんのにょうご)腹の皇子と決まっていましたが、この才能溢れる宮を東宮にお立てになりたいと帝が思われるのは無理なきほどの神童ぶりでした。
しかし後ろ盾もない宮ではまわりも納得しないでしょう。
そんな時に高麗の優れた人相見がこの国を訪れていることを知った帝は、若宮の素性を隠して密かに引き合わせることにしました。
高麗人は
「若宮は天子に昇る相があるものの、そうなれば国が乱れ、民が苦しむこととなり、国家の柱石となればまた別のようにも思われる」
と見立てました。
さらに尊い宮に出会えた感激を漢詩で詠むと、若宮もそれに応えた漢詩をお作りになったので、「光る君かな・・・」とひれ伏しました。
この高麗人との対面は内密なものでしたが、どこからともなく噂は流れ、いつしか若宮は“光る君”と呼ばれるようになりました。
桐壷帝は日々若宮の成長を見守りつつ、何年たっても亡き更衣を忘れることができないご様子でした。
女御や更衣たちの元へのお渡りもありません。
側近たちは先の帝の四の姫宮の入内を薦め、その宮をご覧になった帝は少し明るい顔を取り戻しました。
面差し、振る舞いなどが亡き更衣によく似ていたからです。
十四歳の美しい少女は藤壺の宮と呼ばれ、九歳になった光る君との運命的な出会いを果たします。
母を知らぬ光る君は更衣によく似ているという藤壺の宮を慕い、紅葉の美しい時にはその枝を添えて文を交わし、これはと趣ある花があれば宮にお届けし、宮が大層喜ばれるのを自分のことのようにうれしく思いました。
そんな仲睦まじく姉弟のような様子をご覧になった帝は二人がいる藤壺は陽が輝くばかりであると目を細められました。
藤壺の宮は皇女であられるので身分も高く、更衣の時とは違い軽んじられることはありません。
やはり弘徽殿女御は面白くなく、光る君が宮に懐かれるのも憎く思うのでした。
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優美和がたり』は平安時代に成立した文様を
モチーフにした婚約・結婚指輪です。



