ユビタマゴ社長、コロナに挑むその7(父の死後) | ユビタマゴ社長のつぶやき

ユビタマゴ社長、コロナに挑むその7(父の死後)

1997年、他界した父の跡を継いで、代表になった私は開発部を閉じました。
自社製品という割の合わない投資は控え、受注生産品に専念したかったのです。

そんなおり、
発明学会の創始者、豊沢豊雄氏の本「発明アイデアを買う300人の社長」という本が刊行されました。300人の社長、というタイトルですが内容を見ると父のことを一番大きく取り上げてくださってました。


この社長に相談すればアイデアをカタチにしてくれる!
この本の反響はかなりのもので、全国の発明家から作品が多数寄せられるようになったのです。
多いときは一日に10件、私は一件ずつ、開発部閉鎖の事情をお伝えしました。
とにかく受注生産に専念したかったのです。


ところが・・、
この頃、「世界の工場」として中国の台頭が本格過化します。弊社のお得意先である日本のメーカーが国内の工場を中国に移していったのです。国内プラスチック加工の同業者たちの淘汰が始まります。
力のあるところは得意先について行って中国に工場を建てました。力のないところは・・、廃業です。

弊社の仕事も枯れていきました。苦肉の策で私はディスプレイ什器のような「一品料理」に手を出し、バラエティストアや量販店に収めるなどして何とかしのいでいきます。


低空飛行ながらも父の死後から10年が立ちました。
2008年、今度はあの、リーマンショックです。
受注生産品の仕事が潮が引くようにどんどん減っていきます。

博打の要素を持つ自社製品開発を捨てて、堅実な受注生産に絞ったつもりが、完全にあてが外れまたまたピンチ!
どーするおれ!
と、なったとき、頭に浮かんだのが、「自社製品の開発」だったのです。

(やっぱりこれしか出来ないか)

つづく