書こうかどうしようか、どこまで書くべきか、どうやって表現したらよいか、迷っていることがあります。

 

でも、自分の中でとても大切な学びで、今現在小さいお子さんがいらっしゃるお母さんにはどうしても知って欲しい内容なので、思い切って赤裸々に書き残したいと思います。

 

 

今回のオースチン滞在三日目。

息子(中3)は、友だちもいない・Wi-Fiも取り上げられ使えない・知らない土地という状態に、爆発しまして。

私に対して、「騙されて連れてこられた!」「息抜きも何もないのに勉強なんてできない!」「地獄だ!」と言い放ち、ずーーーっと陰湿な面持ちで部屋に閉じこもっていたのです。

 

食事も摂らず、まさしく何もしないことでストライキを起こしている状態です。

 

私は息子に言いました。

 

「たった10日間のことだよ。

勝手に時間は過ぎて、あっという間に日本に帰ることになるんだから。

そしたら全て何もかも元通りの生活でしょう?

今だけでもここの生活に集中して楽しんだらどう?」

 

そんなことを口では言いながら、私の思考は実際はこんなことを思っていました。

 

 

『気持ちは分からなくもない。

知らない土地だし、足があるわけでもないから自由に動けないし。

海外だから勝手に外へ出ていかれても安全面で怖いし。

ここには話せる友達がいるわけでもないし、

Wi-Fiがなければ日本の友達と会話することもできないから寂しいよね。

自分の家じゃないから遊ぶものもなければ詰まらないよね。』

 

 

私には、息子はもう15歳で分別がつく歳になった青年と思っていたのです。

これは後に、由紀子さんによって気付かされた私の意識していない無意識でのことなのですが。

彼女のお言葉をお借りすると、「息子をヒーローだと思ってるのよね。」

 

ヒーロー?

 

その時はピンと来なかったのですが、ずっと考えていて あ~、私は話せば分かってくれるだろうという自分の気持ちを息子に押し付けていたんだな と気付くこととなりました。

でも、現実の目の前にいる息子は、話せば分かるどころか私の上手を行って私をコントロールしようとしているじゃありませんか。

これは幼い子供でもする自分の望みを叶える手段として無意識にしていることです。

つまり、本来はここで、それが梃子でも通じないことを教えるチャンスだったということです。

 

私はこの時、口で言っていることと、態度が一致していなかったのです。

実はこれは日本にいるときから感じていました。

自分の中に迷いがありながら、でも”常識だろうから”子供に言うのです。

馬のリトリートを通して、思考と体現していることが一致していなければ相手に伝わらないどころか、リーダーとして認めてもらうこともできず、従うはずもないことだと身をもって知ることになりました。

 

 

そしてもう一つ、このことを通じて大きな気付きがありました。

 

由紀子さんとご主人のロバートさんに息子のこの状態を相談すると、息子にこんな風におっしゃいました。

 

「知らない土地に来たんだから、どんなオプションがあるか分からないから選択しようがないよね。

でもね、自分はこういうことがしたいとか、こんなことに興味があるとか、こんな場所が見たいとか自分から話してくれなければ分からないよね。

そうしてくれれば、あれがあるよとか、ここへ行ってみようかとか言えるよ。」

 

そうなのです。

それがコミュニケーションというものです。

我が息子はそれすらできていないんだ・・・

 

 

そして、続けて仰ったことです。

 

「ここには何でもあるの。

例えば、池で釣りがしたいから何か釣り具はありますか?って聞いてくれたら何か作れると思わない?

自然がたくさんあるから基地を作るとか何でもしたいようにしても良いのよ。」

 

更に唖然

 

私すら自然の中で遊ぶアイディアはたいして思い浮かばない。

それどころか、正直したくない・・・そう思ったのです。

きっと息子も同じことを感じていたと思います。

「それは興味ない」と言いましたから。

 

 

つまり何が言いたいかと言うと、息子が幼い時にそういう遊びをしてこなかったということです。

もちろん都心に住んでいてそういう自然の場所がなかった時もあります。

逆に離婚後は実家に身を寄せ、そこは山の上なので自然がないなんてことはないのですが連れて遊んだことはありません。

 

ただ単に、私がしたくなかったからしなかっただけ、ということです。

 

15年越しに、こんな形で自分の育児について通知表(結果)をもらったようで愕然としたのです。

 

息子が遊ぶものがないからと言って駄々をこねている!

息子がない中で遊ぶものを創造することができない!

だから何を見ても何もないと言っている!

 

 

息子の幼い時に、友だちがいないからと言って家の中でレゴで遊ばせたり

私が疲れているからと言ってビデオを見せっぱなしにしてたり

たまの休みは水族館や科学館に連れて行ったり

 

どれも間違ってないんですよ?

 

レゴは手先も使うし、想像しながら自分で創ることができるし、何より楽しい。

ビデオだって子供は見たいものでしょう?

息子は映画全般好きなので、色んな映画を沢山見て、初めて見る映画でも何となくオチが分かるようになりましたよ。

水族館だって科学館だっていっぺんに色んな情報に出会えるでしょう。

 

ですが、一つ大事な視点を忘れていたんです。

というか知らなかったんです。

 

 

これらは全て私が用意したものであるということを。

子供に”何もない中で創造させる遊び”をさせてこなかったんですね。

 

自分自信身が子供の時は、裏手の土手を何回も駆け上がったり、石を削って水で溶いたものをスープにしたり、草を潰したものをおかずにしておままごとをしたり、ドブにいる水ミミズを発見して魚釣りをしたり。

姉はもっと活発で、林の中で基地を来る日も来る日も作っていたそうです。

友達がいる日もいない日もありました。

そう。友達がいようがいまいがお構いなしで、次から次へと何もない中から遊びを考えては遊んでいたのです。

私自身が当たり前にこういう経験をしてきたからと言って、我が子も勝手にそうなるわけではないのですね。

 

 

ぜひ、幼いお子さんをお持ちの方にお伝えしたいです。

大人が用意した遊びの中で体験することに慣れてしまうと、子供はやる気を失っていきます。

用意されないと”在る”ということに気が付かないのです。

気が付かないから”在る”のに”(存在し)無い”と思うのです。

そして、ただ単に用意されたものに好きか嫌いか判断するだけになってしまい、やらないのです。

 

由紀子さんが分かり易いお話をしてくださいました。

昔されていたお仕事で、完遂する前に先に多額の支払いがあったそうです。

すると俄然仕事をするモチベーションが下がってしまったのだそう。

人は対価を先に手にすると途端にやる気がなくなってしまうのですね。

それをする理由がなくなってしまうからでしょう。

 

だから、自分のしたい何かを見つけることから

何もないゼロから一にする過程が楽しい

 

その楽しさを子供たちから奪っていませんか?

 

池と言うには大きい過ぎる敷地内の池↑

魚が沢山↑

ナマズもけっこういます↑そして大きい