義父のヘルパーさんは65歳。


山登り、水泳、そしてマラソンと、身体を動かすことが大好きなアクティブな人である。


でも、義父の世話のために、月に二日ほどしか休みを取れない。彼女の代わりに来てくれる人がいない。


何故、代わりの人がいないのかと言えば、義父が誰も気に入らないからである。


何人ものヘルパーさんが入れ替わり立ち代わり、何年にも渡って交替してきた。


だから、こんなに義父のめがねにかなった人は彼女だけなのだ。


何年もこうして義父とつきあっているうちに、義父の良い所も悪い所もわきまえてくれて、義父を教育してくれているようだ。


教育とは言わないだろうが、私からすれば教育してくれているように思える。


義父は頭の良い人だから、彼女が今何故言葉を発しないのか、今言っていることの真意は何なのか、色々と考えるようだ。


自分が悪かった!と、反省して謝ることもあるようだ。


彼女が普通の人と違う所は、それですべてを終わらせることだろう。後にそれを残すことがない。恨んだり、腹を立てたりを長引かせることなく、それで終わりに出来る所なのだろうと思う。


私は義父との中の出来事を、長い間忘れることが出来なかった。


怒鳴られたり、怒りにまかせて言われたことを、忘れることが出来なかった。それが、とても理不尽だったからである。


彼女はそれが理不尽であっても、そこで終わらせているのだ。


そうでなければ、努められないのは確かだ。自分が辛くなる。


辞めたければ辞められるが、彼女の責任感がそれをしないでいる。


でも、義父は感謝している。彼女なしでは生きていけないことを承知している。


老いてなお生きる!という事は、決して易しいことではないと最近私は感じている。


義父を見て、実母を見て、本当にそう思う。


それでも人は寿命が尽きるまで生きなければいけない。


若い人が生きて行くことと、老人が生きて行くことは違う。


老人が若い人のように生きられれば、それは幸せなことだが、なかなかそうは行かない。


すべてが、”折り合いをつける”そんな感じがするのだ。


自分の身体のコンディションとの折り合い、人との折り合い、家族との折り合い、そして、社会との折り合い。時には自分自身との折り合いもつけなければ快適には生きていけない。


その幅が広い割には、動きも悪く、融通も利かなくなるのが老人の辛い所なのではないだろうか?