教育が私にもう一つの人格を生んだといってよい。
闘争の快楽に善悪という概念は存在せず、ただ己が気持ちが良いと思えることを選択したという共通性において小学生になる前の私と有象無象の活動家に違いはみられない。大義を言い訳として己の快楽を欲している純然性こそが本質であり、契機や理性で述べられる動機は偽りの建前に過ぎない。
許される公然の倫理と許されざる動機があり、それを自然に察するだけの能力があれば言い訳には事欠かない。
幼稚園にいた頃の繰り返しの挫折により心神喪失にある状態の私に与えられた仏陀の思想は物心がつく頃の私によく馴染み、その思想から演繹されて顕現に至った高潔なる人格が私のイマジナリーフレンドとして強く理性をつかさどって私を長年支配することになる。
入れ替わりの契機はハサミを投げた時点で訪れていた。
挫折を乗り越えて再び暴力を用いる段階において再び挫折しないための完全なる公然の倫理が必要であった。
本来の私は6歳の時点ですでに封印されていた。
まず一介の粗暴な子供がおり、次にその子供に時期をみて親が最古の道徳を与え、その子供は文字通り道徳にすべてを支配され、その呪縛をゲームとフィクションと他人の堕落によって一時的に誤魔化す術を覚え、最終的に己がいったいどのような状況にあるのかを学問により知る。
私が高校の時点で選択教科として男子がほぼいなかった倫理を選択したのは偶然ではなく、私を縛り付けている最古の呪いを相対化させて弱める狙いが確かにあった。そのような不純な動機で倫理を選んだことを私は覚えている。私が哲学に詳しいのは何故か。純粋な学への興味に酔った結果ではない。ただ本来の己であれない苦しみが限界に近付いていた結果に過ぎなかった。
同じく高校の時点で訪れた家庭崩壊と早すぎる一人暮らしという環境の変化は私の直接的な変貌の原因ではないが遠因ではあるのだろう。
私に対する強すぎる束縛がなくなったと同時に庇護が軽減して自分自身に対する責任と現実感が身についた。
今の私は単なる粗暴な子供と最古の道徳の化身のどちらであるのか。統合という簡便なる言葉を使ってどちらでもないということは容易にできる。
ただ実際は