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 日常に回帰するときがきたのかもしれないと思う。

 自分の両親にはミーハーなところがあるのでとりあえずパソコンを買っておこうということでwin98が発売当初から家にあった。それは置物のようであり、妹がたまにタイピングソフトでタイピングの練習をしている以外には特に使われておらず、情報という名の授業で使い方を教わったものの、私自身パソコンがどのようなものかよくわかっていなかったためにあまり触りもしなかった。

 そのようにネットに無関心であった自分がインターネットを使い始めるきっかけとなった出来事はある。運動も勉強も出来ないクラスの低カーストに所属する集団がなにやらひそひそとパソコンで閲覧できるサイト名と思わしき情報を交換していたのだった。私はそれを特に意識せず覚えてしまったので、帰ってから彼らが何を話していたのかを知りたくなり、そのサイト名を検索したのだった。

 ……そこからは情報の奔流の中、自分の好奇心の赴くまま、知りたいという欲望を常に満たす最高の環境を手に入れたという意識でもって清濁併せ呑み、その結果、自分で完成していると思える今の自分がいるというわけである。
 
 完成した後には何があるか。破壊と再生だろう。人も例外ではなく完成した何事も一部の破壊と再生によってのみ新たな成長は為されるわけである。なぜ人は成長を望むのか。必ずしも成長しなければいけないわけではない。停滞こそ望ましいケースもある。ただ、私個人の問題として、どこか退屈を感じ始めたときに、退屈を解消するために自らを更新しなければ、この退屈は生涯消え去ることがないのだろうという直感的な見通しがあるに過ぎない。

 本棚に入れる本を探す、そのためにインターネットは非常に役に立った。しかし、本を開き読み、自らの一部とするためにはインターネットは役に立たない。人は本を開くとき、自らの人生を生きなければならない。現代の世界という大枠、その歴史、歴史に註釈として彩られる科学・学問のさまざまな分野の大局図、分野ごとについての大まかな理解、そして更なる理解を必要とするものに示される専門書の山。この山を目にするところにまで自らが至れたとき、私のような人間は本を開かねばならない。すなわちつながりのない日常に回帰する必要が生まれるだろう。

 ネットにつないだままでも本は読める。しかし必要ではない。そしてくだらなくつまらないつながりのある日常のくりかえし、何の知的好奇心も刺激しない動物的なよろこびは決して悪い感覚ではなく、だからこそ常に誘惑として強い魅力を放っている。退屈は退屈によって殺されてしまうのだ。まるで人が麻酔薬で感覚をなくされるかのように。