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信子は女子大学にいた時から、才女として評判だった。彼女がいずれ作家として世に出る事は、ほとんど誰も疑わなかった。中には彼女が在学中、すでに三百何枚かの自叙伝体小説を書き上げたなどと吹聴して歩くものもあった。が、学校を卒業して見ると、まだ女学校も出ていない妹の照子と彼女とを抱えて、再婚せずに育ててくれた母の手前も、それほどわがままも言えない、複雑な事情もないではなかった。そこで彼女は創作を始める前に、まず世間の習慣通り、縁談から決めなければならなかった。

 

彼女には俊吉と言う従兄があった。彼は当時まだ大学の文学部に在籍していたが、やはり将来は作家になる意志があるらしかった。信子はこの従兄の大学生と、昔から親しく往来していた。それが互に文学と言う共通の話題ができてからは、いよいよ親しみが増したようであった。ただ、彼は信子と違って、当時流行していたトルストイ主義などには一向敬意を表さなかった。そうして始終フランス仕込みの皮肉や警句ばかり並べていた。

 

こう言う俊吉の冷笑的な態度は、時々万事真面目な信子を怒らせてしまう事があった。が、彼女は怒りながらも俊吉の皮肉や警句の中に、何か軽蔑できないものを感じない訳には行かなかった。

 

だから彼女は在学中も、彼と一緒に展覧会や音楽会へ行く事がまれではなかった。もっとも大抵そんな時には、妹の照子も同伴であった。彼ら三人は行きも帰りも、気兼ねなく笑ったり話したりした。が、妹の照子だけは、時々話の圏外へ置き去りにされる事もあった。それでも照子は子供らしく、ショーウィンドーの中のパラソルや絹のショールを覗き歩いて、格別仲間外れにされた事を不平に思ってもいないらしかった。

 

信子はしかしそれに気がつくと、必ず話題を変えて、すぐに又元の通り妹にも口をきかせようとした。その癖まず照子を忘れるものは、いつも信子自身であった。俊吉はすべてに無関心なのか、相変わらず気の利いた冗談ばかり投げつけながら、目まぐるしい往来の人通りの中を、大股にゆっくり歩いて行った。……………

 

信子と従兄との間がらは、もちろん誰の眼に見ても、来るべき彼らの結婚を予想させるのに十分であった。同窓たちは彼女の未来をてんでに羨んだり妬んだりした。特に俊吉を知らないものは、(こっけいと言うより外はないが、)一層これが激しかった。信子もまた一方では彼らの推測を打ち消しながら、他方ではその確かな事をそれとなく故意にほのめかしたりした。従って同窓たちの頭の中には、彼らが学校を出るまでの間に、いつか彼女と俊吉との姿が、まるで新郎新婦の写真のように、一緒にはっきり焼きつけられていた。

 

ところが学校を卒業すると、信子は彼らの予期に反して、大阪のある商事会社へ近頃勤務する事になった、高等商業学校を出た青年と、突然結婚してしまった。そうして式後二三日してから、新婚の夫と一緒に勤め先の大阪へ向けて立ってしまった。その時東京駅へ見送りに行ったものの話によると、信子はいつもと変わりなく、晴れ晴れした微笑を浮べながら、ともすれば涙を落としがちな妹の照子をいろいろと慰めていたと言う事であった。

 

同窓たちは皆不思議がった。その不思議がる心の中には、妙に嬉しい感情と、前とは全然違った意味で妬ましい感情とが交っていた。ある者は彼女を信頼して、すべてを母親の意志に帰した。又あるものは彼女を疑って、心がはりがしたとも言いうらした。が、それらの解釈が結局想像に過ぎない事は、彼ら自身さえ知らない訳ではなかった。彼女はなぜ俊吉と結婚しなかったか? 彼らはその後しばらくの間、よるとさわると重大らしく、必ずこの疑問を話題にした。

 

そうしてかれこれ二月ばかり経っと一一まったく信子を忘れてしまった。もちろん彼女が書くはずだった長篇小説の噂なぞも。

 

信子はその間に、大阪の郊外で、幸福になるはずの新生活を始めた。彼らの家はその辺りでも最も閑静な松林にあった。松やにの匂いと日の光一一夫の留守にはいつも、それらが二階建ての新しい借家を、生き生きとした静けさで満たしていた。信子はそう言う寂しい午後、時々理由もなく気が沈むと、きっと針箱の引出しを開けては、その底に畳んでしまってある桃色の便箋をひろげて見た、便箋の上にはこんな事が、細々とペンで書いてあった。

 

「――もう今日かぎりお姉様と一緒にいる事ができないと思うと、これを書いている間さえ、とめどなく涙が溢れて来ます。お姉様。どうか、どうか私をお許しください。照子は勿体ないお姉様の犠牲の前に、何と申し上げてよいかもわからずにおります。

 

「お姉様は私のために、今度の縁談をお決めになりました。そうではないとおっしゃっても、私にはよくわかっております。いつだったか一緒に帝劇を見物した晩、お姉様は私に俊さんは好きかとお聞きになりました。それから又好きならば、お姉様がきっと骨を折るから、俊さんの所へ行けともおっしゃいました。あの時もうお姉様は、私が俊さんに差し上げるはずの手紙を読んでいらっしゃったのでしょう。

 

あの手紙がなくなった時、本当に私はお姉様を恨めしく思いました。(ごめんなさい。この事だけでも私はどの位申し訳がないかわかりません。)ですからその晩も私には、お姉様の親切なお言葉も、皮肉のような気さえ致しました。私が怒ってお返事らしいお返事も碌に致さなかった事は、もちろんお忘れではないでしょう。けれどもあれから二三日経って、お姉様の縁談が急にきまってしまった時、私はそれこそ死んででも、お詫びをしようかと思いました。

 

お姉様も俊さんがお好きなのですもの。(お隠しになってはいや。私はよく知っていますよ。)私の事さえおかまいにならなければ、きっとご自分が俊さんの所へいらっしゃったのに違いありません。それでもお姉様は私に、俊さんなぞは思っていないと、何度も繰返しておっしゃいました。そうしてとうとう心にもない結婚をなさってしまいました。私の大事なお姉様。私が今日鶏を抱いて来て、大阪へいらっしゃるお姉様に、ご挨拶をしなさいと申した事をまだ覚えていらっしゃって? 私は飼っている鶏にも、私と一緒にお姉様へお詫びを申してもらいたかったの。

 

そうしたら、何にもご存じないお母様までお泣きになりましたのね。

 

「お姉様。もう明日は大阪へいらっしゃってしまいなさるでしょう。けれどもどうかいつまでも、お姉様の照子を見捨てずに頂戴、照子は毎朝鶏に餌をやりながら、お姉様の事を思い出して、誰にも知れず泣いています。…………………」

 

信子はこの少女らしい手紙を読むごとに、必ず涙が滲んで来た。特に東京駅から汽車に乗ろうとする間際、そっとこの手紙を彼女に渡した照子の姿を思い出すと、何とも言われずにいじらしかった。が、彼女の結婚は果たして妹の想像通り、すべてが自己犠牲によるものだったのだろうか。そう疑いを挟む事は、涙の後の彼女の心へ、重苦しい気持ちを広げがちであった。信子はこの重苦しさを避けるために、大抵はじっと快い感傷の中に浸っていた。

 

そのうちに外の松林へ一面に当たった日の光が、だんだん黄ばんだ暮方の色に変っていくのを眺めながら。

 

二

 

結婚後かれこれ三月ばかりは、あらゆる新婚の夫婦のように、彼らもまた幸せな日々を送った。

 

夫はどこか女性的な、口数を利かない人物であった。それが毎日会社から帰って来ると、必ず晩飯後の何時間かは、信子と一緒に過す事にしていた。信子は編物の針を動かしながら、近頃世間に騒がれている小説や戯曲の話などもした。その話の中には時によると、基督教の匂いのする女子大学趣味の人生観が織りこまれている事もあった。夫は晩酌の頬を赤らめたまま、読みかけた夕刊を膝へのせて、珍しそうに耳を傾けていた。が、彼自身の意見らしいものは、一言も加えた事がなかった。

 

彼らは又ほとんど日曜ごとに、大阪やその近郊の遊覧地へ気晴らしの一日を暮らしに行った。信子は汽車電車へ乗る度に、どこでも飲食する事をためらわない関西人が皆卑しく見えた。それだけおとなしい夫の態度が、格段に上品なのを嬉しく感じた。実際身ぎれいな夫の姿は、そう言う人混みに交っていると、帽子からも、背広からも、あるいは又赤皮の編上げからも、化粧石鹸の匂いに似た、一種の清々しい雰囲気を漂わせているようであった。特に夏の休暇中、舞子まで足を延した時には、同じ茶屋に来合わせた夫の同僚たちに比べて見て、一層誇りがましいような心もちがせずにはいられなかった。が、夫はその下品な同僚たちに、意外にも親しみを持っているらしかった。

 

その内に信子は長い間やめていた創作を思い出した。そこで夫の留守の内だけ、一二時間ずつ机に向かう事にした。夫はその話を聞くと、「いよいよ女流作家になるかね。」と言って、やさしい口もとに薄笑いを見せた。しかし机には向かうにしても、思いの外ペンは進まなかった。彼女はぼんやり頬杖をついて、炎天の松林の蝉の声に、我知れず耳を傾けている彼女自身を見つけがちであった。

 

ところが残暑が初秋へ振り変わらうとする時分、夫はある日会社の出がけに、汗じみた襟を取り替えようとした。が、生憎襟は一本残らず洗濯屋の手に渡っていた。夫は日頃身ぎれいなだけに、不快らしく顔を曇らせた。そうしてズボン吊りを掛けながら、「小説ばかり書いていちゃ困る。」といつになく嫌みを言った。信子は黙って眼を伏せて、上衣の埃を払っていた。

 

それから二三日過ぎたある夜、夫は夕刊に出ていた食糧問題から、月々の経費をもう少し軽減できないものかと言い出した。「お前だっていつまでも女学生じゃあるまいし。」――そんな事も口へ出した。信子は気のない返事をしながら、夫のネクタイの刺繍をしていた。すると夫は意外な位執拗に、「そのネクタイにしてもさ、買う方がかえって安くつくじゃないか。」と、やはりねちねちした調子で言った。

 

彼女はなおさら口が利けなくなった。夫もしまいには白けた顔をして、つまらなそうに商売関係の雑誌か何かばかり読んでいた。が、寝室の電燈を消してから、信子は夫に背を向けたまま、「もう小説なんぞ書きません。」と、囁くような声で言った。夫はそれでも黙っていた。しばらくして彼女は、同じ言葉を前よりもかすかに繰返した。それから間もなく泣く声が漏れた。夫は二言三言彼女を叱った。

 

その後でも彼女のすすり泣きは、まだ絶え絶えに聞こえていた。が、信子はいつの間にか、しっかりと夫にすがっていた。......

 

翌日彼らは又元の通り、仲のよい夫婦に返っていた。

 

と思うと今度は十二時過ぎても、まだ夫が会社から帰って来ない晩があった。しかも漸く帰って来ると、雨コートも一人では脱げない程、酒臭い匂いを呼吸していた。信子は眉をひそめながら、甲斐甲斐しく夫に着換へさせた。夫はそれにもかかわらず、回らない舌で皮肉さえ言った。「今夜は僕が帰らなかったから、よほど小説がはかどっただろう。」――そう言う言葉が、何度となく女のような口から出た。

 

彼女はその晩床に入ると、思わず涙がほろほろ落ちた。こんな処を照子が見たら、どんなに一緒に泣いてくれるであろう。照子。照子。私が頼りに思うのは、たったお前一人ぎりだ。一一信子は度々心の中でこう妹に呼びかけながら、夫の酒臭い寝息に苦しまされて、ほとんど夜中まんじりともせずに、寝返りばかり打っていた。

 

が、それもまた翌日になると、自然と仲直りができ上っていた。

 

そんな事が何度か繰返される内に、だんだん秋が深くなって来た。信子はいつか机に向かって、ペンを執る事がめったになった。その時にはもう夫の方も、前程彼女の文学談を珍しがらないようになっていた。彼らは夜ごとに長火鉢を隔てて、こまごまとした家庭の経済の話に時間をつぶす事を覚え出した。その上又こう言う話題は、少なくとも晩酌後の夫にとって、最も興味があるらしかった。それでも信子は気の毒そうに、時々夫の顔色をうかがって見る事があった。

 

が、彼は何も知らず、近頃延したひげを噛みながら、いつもより余程快活に、「これで子供でもできて見ると一一」なぞと、考え考え話していた。

 

するとその頃から月々の雑誌に、従兄の名前が見えるようになった。信子は結婚後忘れたように、俊吉との文通を絶っていた。ただ、彼の動静は、一一大学の文科を卒業したとか、同人雑誌を始めたとか言う事は、妹から手紙で知るだけであった。又それ以上彼の事を知りたいと言う気も起さなかった。が、彼の小説が雑誌に載っているのを見ると、懐かしさは昔と同じであった。彼女はそのページをめくりながら、何度も一人微笑を洩らした。

 

俊吉はやはり小説の中でも、冷笑とユーモアとの二つの武器を宮本武蔵のように使っていた。彼女にはしかし気のせいか、その軽快な皮肉の後に、何か今までの従兄にはない、寂しそうな投げやりの調子が潜んでいるように思われた。と同時にそう思う事が、後ろめたいような気もしないではなかった。

 

信子はそれ以来夫に対して、一層優しく振る舞うようになった。夫は夜寒の長火鉢の向こうに、いつも晴れ晴れと微笑している彼女の顔を見いだした。その顔は以前より若々しく、化粧をしているのが常であった。彼女は針仕事の店を拡げながら、彼らが東京で式を挙げた当時の記憶なぞも話したりした。夫にはその記憶の細かいのが、意外でもあり、嬉しそうでもあった。「お前によくそんな事まで覚えているね。」

 

一一夫にこうからかわれと、信子は必ず無言のまま、眼にだけ甘えるような返事を見せた。が、なぜそれ程忘れずにいるか、彼女自身も心の内では、不思議に思う事が度々あった。

 

それから程なく、母の手紙が、信子に妹の結納が済んだと言う事を報じて来た。その手紙の中には又、俊吉が照子を迎えるために、山の手のある郊外へ新居を設けた事もつけ加えてあった。彼女は早速母と妹とへ、長い祝いの手紙を書いた。「こちらは留守を任せる人がいないので、残念ながら式には伺えませんが………………」そんな文句を書いている内に、(彼女にはなぜかわからなかったが、)筆の渋る事も再三あった。

 

すると彼女は眼を挙げて、必ず外の松林を眺めた。松は初冬の空の下に、群がって青黒く茂っていた。

 

その晩信子と夫とは、照子の結婚を話題にした。夫はいつもの薄笑いを浮べながら、彼女が妹の口真似をするのを、面白そうに聞いていた。が、彼女には何となく、彼女自身に照子の事を話しているような心もちがした。「どれ、寝るかな。」一一二三時間の後、夫は柔なひげを撫でながら、おっくうそうに長火鉢の前を離れた。信子はまだ妹へ祝ってやる品を決し兼ねて、火箸で灰文字を書いていたが、この時急に顔を挙げて、「でも妙なものね、私にも弟が一人できるのだと思うと。」と言った。「当り前じゃないか、妹もいるんだから。」――彼女は夫にこう言われても、考深い眼つきをしたまま、何とも返事をしなかった。

 

照子と俊吉とは、十二月の中旬に式を挙げた。当日は正午の少し前から、ちらちら白い物が落ち始めた。信子は一人昼食をすませた後、いつまでもその時の魚の匂いが、口について離れなかった。「東京も雪が降っているかしら。」――こんな事を考えながら、信はじっとうす暗い茶の間の長火鉢にもたれていた。雪がいよいよ烈しくなった。が、口中の生臭さは、やはりしつこく消えなかった。

 

三

 

信子はその翌年の秋、会社の仕事で来た夫と一緒に、久しぶりで東京の土を踏んだ。

 

が、短い期間内に、果すべき用事の多かつた夫は、ただ彼女の母親の所へ、来て早々顔を出した時の外は、ほとんど一日も彼女をつれて、外出する機会を見いださなかった。彼女はそこで妹夫婦の郊外の新居を尋ねる時も、新開地じみた電車の終点から、たった一人人力車に揺られて行った。

 

彼らの家は、町並が葱畑に移る近くにあった。しかし隣近所には、いずれも借家らしい新築が、せせこましく軒を並べていた。軒に直接取りつけた門、カナメモチの垣根、それから竿に干した洗濯物、一 すべてがどの家も変わりはなかった。この平凡な住居の様子は、多少信子を失望させた。

 

が、彼女が案内を求めた時、声に応じて出て来たのは、意外にも従兄の方であった。俊吉は以前と同じように、この珍客の顔を見ると、「やあ。」と快活な声を挙げた。彼女は彼がいつの間にか、丸刈り頭でなくなったのを見た。「しばらく。」「さあ、お上がり。生憎僕一人だが。」「照子は?留守?」「使に行った。女中も。」一一信子は妙に恥ずかしさを感じながら、派手な裏のついた上衣をそっと玄関の隅に脱いだ。

 

俊吉は彼女を書斎兼客間の八畳へ座らせた。座敷の中にはどこを見ても、本ばかり乱雑に積んであった。特に午後の日の当たった障子際の、小さな紫檀の机の周りには、新聞雑誌や原稿用紙が、手のつけようもない程散らかっていた。その中に若い妻の存在を語っているものは、ただ床の間の壁に立てかけた、新しい一面の琴だけであった。信子はこう言う周囲から、しばらく物珍しい眼を離さなかった。

 

「来ることは手紙で知っていたけれど、今日来ようとは思わなかった。」一一俊吉は巻煙草へ火をつけると、さすがに懐かしそうな眼つきをした。「どうです、大阪の暮らしは?」「俊さんこそどう? 幸福?」一一信子もまた二言三言話す内に、やはり昔のような懐かしさが、よみがえって来るのを意識した。文通さえ碌にしなかった、かれこれ二年越しの気まずい記憶は、思ったより彼女を煩わさなかった。

 

彼らは一つ火鉢に手をかざしながら、いろいろな事を話し合った。俊吉の小説だの、共通な知人の噂だの、東京と大阪との比較だの、話題はいくら話しても、尽きない位沢山あった。が、二人とも言い合わせたように、全然暮らし向きの問題には触れなかった。それが信子には一層従兄と、話していると言う感じを強くさせた。

 

時々はしかし沈黙が、二人の間に来る事もあった。その度に彼女は微笑したまま、眼を火鉢の灰に落した。そこには待つとは言えない程、かすかに何かを待つ気持ちがあった。すると故意か偶然か、俊吉はすぐに話題を見つけて、いつもその心もちを打ち破った。彼女は次第に従兄の顔をうかがわずにはいられなくなった。が、彼は平然と巻煙草の煙を呼吸しながら、格別不自然な表情を装っている様子も見えなかった。

 

その内に照子が帰って来た。彼女は姉の顔を見ると、手をとり合わないばかりに嬉しがった。信子も唇は笑いながら、眼にはいつかもう涙があった。二人はしばらくは俊吉も忘れて、去年以来の生活を互に尋ねたり尋ねられたりしていた。特に照子は活き活きと、血の色を頬に透かせながら、今でも飼っている鶏の事まで、話して聞かせる事を忘れなかった。俊吉は巻煙草を啣へたまま、満足そうに二人を眺めて、相変わらずにやにや笑っていた。

 

そこへ女中も帰って来た。俊吉はその女中の手から、何枚かのはがきを受取ると、早速側の机へ向かって、せっせとペンを動かし始めた。照子は女中も留守だった事が、意外らしい様子を見せた。「じゃお姉様がいらっしゃった時は、誰も家にいなかったの。」「ええ、俊さんだけ。」一一信子はこう答える事が、平気を強いるような心もちがした。すると俊吉が向こうを向いたなり、「旦那様に感謝しろ。その茶も僕が入れたんだ。」と言った。照子は姉と眼を見合わせて、悪戯そうにくすりと笑った。が、夫にはわざとらしく、何とも返事をしなかった。

 

間もなく信子は、妹夫婦と一緒に、晩飯の食卓を囲むことになった。照子の説明する所によると、膳に上がった玉子は皆、家の鶏が産んだものであった。俊吉は信子に葡萄酒をすすめながら、「人間の生活は略奪で持っているんだね。小はこの玉子から」一ーなぞと社会主義じみた理屈を並べたりした。その癖ここにいる三人の中で、一番玉子に愛着のあるのは俊吉自身に違いなかった。照子はそれが可笑しいと言って、子供のような笑い声を立てた。

 

信子はこう言う食卓の空気にも、遠い松林の中にある、寂しい茶の間の暮方を思い出さずにいられなかった。

 

話は食後の果物を荒した後も尽きなかった。微酔を帯びた俊吉は、夜長の電燈の下にあぐらをかいて、盛に彼一流の屁理屈を並べた。その勢いよく話す様子が、もう一度信子を若返らせた。彼女は熱のある眼つきをして、「私も小説を書き出そうかしら。」と言った。すると従兄は返事をする代わりに、グールモンの警句を投げかけた。それは「芸術の女神ミューズたちは女だから、彼らを自由に虜にするものは、男だけだ。」と言う言葉であった。信子と照子とは同盟して、グールモンの権威を認めなかった。「じゃ女でなければ、音楽家になれなくって? アポロは男じゃありませんか。」一一照子は真面目にこんな事まで言った。

 

その暇に夜が更けた。信子はとうとう泊る事になった。

 

寝る前に俊吉は、縁側の雨戸を一枚開けて、寝間着のまま狭い庭へ下りた。それから誰を呼ぶともなく「ちょっと出てご覧。よい月だから。」と声をかけた。信子は一人彼の後から、靴脱ぎ石の庭下駄へ足を下した。足袋を脱いだ彼女の足には、冷たい露の感じがあった。

 

月は庭の隅にある、痩せがれた檜の梢にあった。従兄はその檜の下に立って、うす明い夜空を眺めていた。「たいへん草が生えているのね。」一一信子は荒れた庭を気味悪そうに、おずおず彼のいる方へ歩み寄った。が、彼はやはり空を見ながら、「十三夜かな。」と呟いただけであった。

 

しばらく沈黙が続いた後、俊吉は静かに眼を返して、「鶏小屋へ行って見ようか。」と言った。信子は黙ってうなずいた。鶏小屋は丁度檜とは反対の庭の隅にあった。二人は肩を並べながら、ゆっくりそこまで歩いて行った。しかしむしろの囲いの内には、ただ鶏の匂いのする、朧げな光と影ばかりがあった。俊吉はその小屋を覗いて見て、ほとんど一人言かと思うように、「寝ている。」と彼女に囁いた。「玉子を人に取られた鶏が。」――信子は草の中に佇んだまま、そう考えずにはいられなかった。………………

 

二人が庭から返って来ると、照子は夫の机の前に、ぼんやり電燈を眺めていた。青いヨコバイがたった一つ、笠に適している電燈を。

 

四

 

翌朝俊吉は一張羅の背広を着て、食事を終えるとすぐ玄関へ行った。何でも亡くなった友人の一周忌の墓参をするのだとか言う事であった。「よいかい。待っているんだぜ。昼ごろまでにはきっと帰って来るから。」 彼はコートをひっかけながら、こう信子に念を押した。が、彼女は華奢な手に彼の中折れ帽を持ったまま、黙って微笑したばかりであった。

 

照子は夫を送り出すと、姉を長火鉢の向こうに招き入れて、まめまめしく茶をすすめなどした。隣の奥さんの話、訪問記者の話、それから俊吉と見に行ったある外国の歌劇団の話、 その外愉快なるべき話題が、彼女にはまだいろいろあるらしかった。が、信子の心は沈んでいた。彼女はふと気がつくと、いつもよい加減な返事ばかりしている彼女自身がそこにあった。それがとうとうしまいには、照子の眼にさえ止るようになった。

 

妹は心配そうに彼女の顔を覗きこんで、「どうして?」と尋ねてくれたりした。しかし信子にもどうしたのだか、はっきりした事はわからなかった。

 

柱時計が十時を打った時、信子は気だるそうな眼を挙げて、「俊さんは中々帰りそうもないわね。」と言った。照子も姉の言葉につれて、ちょっと時計を仰いだが行これは意外にも冷淡に、「まだーー」とだけしか答えなかった。信子にはその言葉の中に、夫の愛に飽き足りている新妻の心があるような気がした。そう思うといよいよ彼女の気もちは、憂鬱に傾かずにはいられなかった。

 

「照さんは幸福ね。」一一信子は顎を半襟に埋めながら、冗談のようにこう言った。が、自然とそこへ忍びこんだ、真面目な羨望の調子だけは、どうする事もできなかった。照子はしかし無邪気らしく、やはり活き活きと微笑しながら、「覚えていらっしゃい。」と睨む真似をした。それからすぐに又「お姉様だって幸福の癖に。」と、甘えるようにつけ加えた。

 

その言葉がぴしりと信子を打った。

 

彼女は心もち目を上げて、「そう思って?」と問い返した。問い返して、すぐに後悔した。照子は一瞬間妙な顔をして、姉と眼を見合わせた。その顔にもまた隠しきれない後悔の心が動いていた。信子は強ひて微笑した。――「そう思われるだけでも幸福ね。」

 

二人の間には沈黙が来た。彼らは柱時計の時を刻む下に、長火鉢の鉄瓶がたぎる音を聞くともなく聞き澄ませていた。

 

「でもお兄様はお優しくはなくって?」--やがて照子は小さな声で、恐る恐るこう尋ねた。その声の中には明らかに、気の毒そうな響が籠っていた、が、この場合信子の心は、何よりも哀れみをはねつけた。彼女は新聞を膝の上へのせて、それに眼を落したなり、わざと何とも答えなかった。新聞には大阪と同じように、米価問題が掲げてあった。

 

その内に静な茶の間の中には、かすかに人の泣く気配が聞こえ出した。信子は新聞から眼を離して、袂を顔に当てた妹を長火鉢の向こうに見いだした。「泣かなくてもよいのよ。」一一照子は姉にそう慰められても、容易に泣き止もうとはしなかった。信子は残酷な喜びを感じながら、しばらくは妹の震える肩へ無言の視線を注いでいた。それから女中の耳を憚るように、照子の方へ顔をやりながら、「悪かったら、私があやまるわ。私は照さんさえ幸福なら、何よりありがたいと思っているの。本当よ。俊さんが照さんを愛していてくれればーー」と、低い声で言い続けた。言い続ける内に、彼女の声も、彼女自身の言葉に動かされて、だんだん感傷的になり始めた。すると突然照子は袖を落して、涙に濡れている顔を挙げた。彼女の眼の中には、意外な事に、悲しみも怒りも見えなかった。が、ただ、抑え切れない嫉妬の情が、燃えるように瞳を火照らせていた。

 

「じゃお姉様は――お姉様はなぜ昨夜も一一」照子は皆まで言わない内に、又顔を袖に埋めて、発作的に烈しく泣き始めた。......

 

二三時間の後、信子は電車の終点に急ぐべく、幌人力車の上に揺られていた。彼女の眼に入る外の世界は、前部の幌を切りのいた、四角なセルロイドの窓だけであった。そこには場末らしい家々と色づいた雑木の梢とが、ゆっくりしかも絶え間なく、後へ後へと流れて行った。もしその中に一つでも動かないものがあれば、それは薄雲を漂わせた、冷やかな秋の空だけであった。

 

彼女の心は静かであった。が、その静かさを支配するものは、寂しい諦めに外ならなかった。照子の発作が終わった後、和解は新しい涙と共に、容易く二人を元の通り仲のよい姉妹に返していた。しかし事実は事実として、今でも信子の心を離れなかった。彼女は従兄の帰りも待たずこの人力車上に身を託した時、すでに妹とは永久に他人になったような心もちが、意地悪く彼女の胸の中に氷を張らせていたのであった。一一

 

信子はふと眼を挙げた。その時セルロイドの窓の中には、ごみごみした町を歩いて来る、杖を抱えた従兄の姿が見えた。彼女の心は動揺した。人力車を止めようか。それともこのまますれ違おうか。彼女は動悸を抑えながら、しばらくはただ幌の下に、空しいためらいを重ねていた。が、俊吉と彼女との距離は、見る見る内に近くなって来た。彼は薄日の光を浴びて、水溜りの多い往来にゆっくりと靴を運んでいた。

 

「俊さん。」――そう言う声が一瞬間、信子の唇から漏れようとした。実際俊吉はその時もう、彼女の人力車のすぐ側に、見慣れた姿を現していた。が、彼女は又ためらった。その暇に何も知らない彼は、とうとうこの幌人力車とすれ違った。薄濁った空、まばらな屋並、高い木々の黄ばんだ梢、一一後には相変わらず人通り少い場末の町があるばかりであった。

 

「秋一一」

 

信子はうすら寒い幌の下に、全身で寂しさを感じながら、しみじみこう思わずにいられなかった。

 

(一九二〇年三月)

 

底本: 現代日本文學大系 43 芥川龍之介集
出版社: 筑摩書房
初版発行日: 1968(昭和43)年8月25日
入力に使用: 1968(昭和43)年8月25日初版第1刷