明日で阪神・淡路大震災、丸15年になります


ゆず母さんの住む神戸は私達の住む街よりひどかったでしょうね

私も神戸より東にある市に住んでいました


当時、入社2年目だった私

実は・・・地震の前日まで宝塚で泊まり込みの研修

今、思えば~研修所で地震にあったら家に帰れないわ

電車の高架が落ちて不通の為

歩いて帰らないといけなかったので自宅で良かったなぁと


1995年1月17日、5時46分 今まで経験したことにない揺れ

転げ回り、収まるまで布団で丸まっていました

その時に叫んでいた言葉は「お母さん~」今でも忘れません

収まると本棚が足元に倒れていました


家族の安否を確かめようと部屋を出ると食器棚が倒れ

なかなか他の部屋に行くことが出来ませんでした

妹の頭の上には棚が倒れ、ガラスが割れていましたがケガなし

そしてリビングにあるテレビテレビNO2が一回転半ぐるぐる

両親の部屋まで行くと母は隣の部屋に逃げ

父もタンスの下敷きになりながらも必死に抜け出したと


家族みんなに安否を確認したので部屋の片付け

割れた物を外に出したのですが周りは静かなので

大丈夫だと思っていましたが一歩外に出ると見たことない光景が・・・


半壊・全壊している家にビックリ∑!!


隣り近所の方の無事を聞き、買い出しに行くことに


コンビニに長蛇の列行列

しかし、ほとんど売り切れ・・・仕方なく店頭にある物をいくつか購入


そして少し落ち着いてから職場に電話しようと思いましたが

家の電話でんわはもちろん不通

なので公衆電話に大量の10円玉を持って行くとまたまた長蛇の列

とりあえず1回掛けてはまた列に並ぶといった感じ


夜には電気だけが復旧し、寒さをしのぐことが出来ましたが

水道・ガスは不通のまま

結局、ガスは2ヵ月以上経って復旧しました


翌日から自転車自転車で職場に行くことに

凸凹道を自転車で走るのは大変でパンクしないように走りました

この時、自転車屋さんは売り切れ続出で閉める店が多かったですね

1週間、自転車で通いましたが体力の限界が・・・

痛い出費でしたが原付スクーターを買うことにしました


仕事と言えば、片付けに追われる毎日

そしてお客さんが来る度におばあちゃんや家族が亡くなったと聞き

一緒に涙哀しみを流したこと数知れず

私達からの気持ちとして温かい飲み物を出して話を聞くと

自宅を全壊し、体育館・公民館での生活でストレスが溜まるとのこと


職場のトイレトイレは水が出ない&流れない為

近くの川で男性社員が水を汲みに行き

終わる度にタンクに入れては流すといった状況

駅のトイレはもっと悲惨の状態でした


本店からは日持ちするパンや水など送って来てくれましたが

社長はヌクヌクと大阪でホテル暮らしをしていたので社員からは超ブーイング


社長の息子さんが陣中見舞いにミスドのドーナツを
持って来てくれたこともありましたが開けると全部同じ種類のみ

頂けるのはとっても有り難いことですが

もうちょっと違う種類を入れるという考えはなかったのかなと・・・

私達、庶民からしたら感覚が違うので仕方ないと思いました


大阪に住む同期の子が

わざわざイチゴいちごの差し入れを持って来てくれた時は泣いちゃいました

そしてこれから神戸の同期のお店にも行くと・・・

お昼前、私の職場に来てくれましたが

神戸に着いたのは夕方になってしまったと後から聞きました


叔母さんや父の知り合いも電車お乗継ぎ、歩いて私の家まで

大変な思いをしてたくさんの食料をリュックに入れて持って来てくれました


お風呂はというとガスが出ないので入ることは出来ず

仕事が終わってから電車に乗って大阪にある銭湯に行ったことも

隣り街の小学校に自衛隊の仮設のお風呂にも度々入りに行きました

そこで他の市の方が炊き出しをしてくれていて

ありがたいことに温かい食事を食べることも出来ましたうどん


いろんな方の優しさに助けられました


15年経った今、見た目は復興していると思いますが

住み慣れた街を離れ、生活している方もたくさんいると思います

この経験を忘れず、次世代に語り継いでいくことは大切

今後、このような災害に見舞われた時にどう対処するのか課題ですね


長々と書いてしましまい、すみませんaya