スポット088(7/7) 「百嶋神社考古学」からみる古代の伊豫国 “山田 裕論文の掲載について”
20170227
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
第五章 各郡が祀る神々
14郡内のうち、宇和郡を除く各郡の一宮及び主要な式内社(尊敬するブログ”玄松子”を中心に
作成)が祀る神々を探ると
表1.各郡が祀る神々
注)赤字は主祭神
表1に掲げる神々のうち、以下に記す神々を『記紀』『先代旧事本紀』並びに神社誌、故百嶋由一郎氏が作成された「神々の系図」を参考に探求すると、
(1)武國凝別命
『日本書紀-景行天皇紀』では、景行天皇と高田媛との間の皇子。『旧事本紀-天皇本紀』も同様の記述であるが、筑紫水間君の祖とある。「神々の系図」によれば、父は御年神(祖父は志那津彦、祖母は志那津姫)、母は古許牟須姫(祖父ニニギノミコト、祖母木花開耶姫)との間に誕生し、筑紫水沼君の祖・御村別の祖としている。別称磯野神とも呼ばれた。
(2)天火明命
「神々の系図」によれば、亦の名を、天児屋根命、天忍骨命、天忍穂耳命、山幸彦、建雷神、経津主神、五十猛神、鹿島大神、級長津彦、饒速日尊等とも呼ばれる。
(3)國常立神
『記』は天神六代、『紀』では、天神初代の神。神仏分離令により、各地の妙見社はご祭神を國常立神から天之御中主に改めた。「神々の系図」も天之御中主としている。
(4)高龗神
『紀』は、イザナギが迦具土神を斬殺した際に化生した三柱の一つ。『記』では、淤加美神と記す。「龗」は「龍」の古語であり、「闇龗」は「谷間を流れる急流」、「高龗」は「山の上からを流れ出る滝」を意味することから、いずれも<水や雨を司る神>とされている。伊予市双海町の三島神社は「大山積命・雷神・高龗神の三座を祀り、大山祇神社境内摂社の上津社は雷神、下津社は高龗神を祀っているが、いずれも同一神の可能性がうかがえる。「神々の系図」によれば、高龗神を大山祇神としている。
(5)五十日足彦(いかたらしひこ)
『記』は、垂仁天皇と苅羽田刀弁の御子、『紀-垂仁紀』では、垂仁天皇と苅幡戸辺の御子と記されている。五十日足彦を祀る神社は、愛媛県・福井県・新潟県に存在する。上越市三和区の五十君神社はご祭神を五十日帯彦命としているが、『神名帳考證』所引の「越後国式社考」は級長津彦・級長戸彦とし、「北越後風土記節解」は、五十猛神・木種大明神、「頚城郡誌稿』は、五十日足彦命・木種大明神と記している。したがって、五十日足彦は、級長津彦・五十猛彦と同一神であると考えられる。
(6)伊予豆比古命(=伊予津彦命)
「神々の系図」によれば、孝霊天皇と皇后細姫との間に誕生した伊予皇子、兄は孝元天皇である。伊予地方に進出したのは、4世紀半ば前後と推測される。伊予津姫命は妃と考えられる。
(7)愛比女命
伊余豆彦命神社の主祭神、伊予豆比古命(=孝霊天皇皇第二皇子伊予皇子)は伊予豆比売命(伊予豆比古命の妃)と対応し、また伊與主命と愛比売命が対応する。松前町の伊豫神社の主祭神彦狭男命(=伊予皇子)は伊予津姫命(伊予皇子の妃)と対応し、また日本根子彦太瓊命は細姫命(孝霊天皇の妃)と対応する。伊予市上野の伊豫神社の主祭神月夜見尊(=大山祇神)は愛比賣命(=大山祇神の妃草野姫)と対応する。
したがって、伊與主命は大山祇神であり、愛比売命は妃草野姫と考えられる。
表1並びに神々の考察により、九州の神々が三世紀初め頃より、古代の伊予国に進出し、在地勢力を習合していった歴史的変遷がみられる。
第一段階 越智族の進出
越智族の祖である大山祇神は、妻草野姫を伴い、越智族を率いて大三島、大島・伯方島の島嶼部
を含む東予地方に進出後、中予から南予地方にまで支配を広げ、国名は、草野姫の別称愛比売命
から「愛比売」と称し、その後、国名は「越智」と「伊余」の二つの名で称された。越智族は東
予地方に土着したと考えられる。
第二段階 天之火明命の進出
越智族進出後、四半世紀を経て東予地方の西条市周辺に天之火明命が進出したと考えられる。「
神々の系図」によれば、饒速日尊と天火明命は同一神と指摘している。この指摘が正しければ、
風早国の國津彦神社が櫛玉饒速日尊を奉斎しているのは奇異に感じる。本来ならば、天火明命を
奉斎してしかるべきであろう。したがって、物部阿佐利は、饒速日尊の直系の系統を継承してい
るとは考えられない。おそらく、物部阿佐利は土着した職能集団である物部一族の一人であった
と考えられる。
第三段階 武國凝別の進出
越智族進出後、半世紀以上を経てニニギノミコトを祖父とする武國凝別が西条市~四国中央市付近に進出。
第四段階 伊予皇子の進出
武國凝別の進出後、ほどなく中予に孝霊天皇の第二皇子で、孝元天皇の弟伊予皇子が進出し、松
山市南部・伊予郡松前町・伊予市東部を支配したと考えられる。その時期は4世紀前後と考えら
れる。
以上の歴史的変遷の成立の背景には、九州では多くの神々(実態は、各地の王及びその子弟)が
乱立し、新天地を求めざるを得なかったことに起因する。新天地への進出に際し、彼らの部族が経済
的にも自立でき、また移動を可能にする地が古代の伊予国であったと考えられる。
おわりに
故百嶋氏が作成された「神々の系図」の絶対年代は、福岡県那珂川町にある「天之御中主神社」で、天照大神(神武天皇の姉ではあるが、当初は部下として従い、その当時の名は大日孁貴、神武天皇の政治的しくじりにより、女王となり名を卑弥呼に改め、最後は天照大神として崇められた)の生誕年齢を発見したことにあると述べられている。私も同社を訪れたが、そのような痕跡は認められなかったし、管見も見あたらなかった。
故百嶋氏は、ある程度のところまで公表並びに示唆を与えてくれるものの、周囲への配慮から絶対に秘すべき事項は曖昧にされたままである。
「神々の系図」に記されている多くの神々を中国史書と検討すると、約80年の誤差、具体的には約80年古いようである。
年代誤差を別にすると、同系図には一定の信頼性が見てとれるのは私だけではないだろう。
本論は、拙稿『大山祇神社の神々の大系』を大幅に改変した。というのは、松山で過ごした五年間では、数々の謎に迫れなかったからである。
のどに刺さっていた刺が、「神々の系図」によりすっきり取り除けた思いが、本論の動機である。
故百嶋神社考古学を紹介していただいた古川清久氏には、紙面を借りて感謝の意を表したい。
百嶋由一郎最終神代系譜(部分)百嶋由一郎系譜を必要とされる方は直接090-6298-3254(古川)まで
〈研究ノート資料〉
天武による「姓」の受号
1.天武11年8月
「凡そ諸の考選はむ者は、能く其の族姓及び景迹弱を検経て、方に後に考めむ。(中略)其の族姓定まらずば、考選はむ色には在らじ。」
2.天武12年(683)9月、姓を賜ひて連と云う。
倭直・栗隈首・水取造・矢田部造・藤原部造・刑部造・福草部造・凡河内直・川内漢直・物部首・山背直・葛城直・殿服部造・門部直・錦織造・縵造・鳥取造・来目舎人造・檜隈舎人造・大狛造・秦造・川瀬舎人造・倭馬飼造・川内馬飼造・黄文造・常集造・蓆集造・勾筥作造・石上部造・財日奉造・泥部造・穴穂部造・白髪部造・忍海造・羽束造・文首・小泊瀬造・語造凡て・38氏
3.天武12年10月、姓を賜ひて連と云う。
三宅吉士・草壁吉士・伯耆造・船史・壱伎史・娑羅馬飼造・菟野馬飼造・吉野首・紀酒人直・采女造・阿直史・高市縣主・磯城縣主・鏡作造併せて14氏。
4.天武13年正月 姓を賜ひて連と云う。
三野縣主・内蔵衣縫造の2氏
5.天武13年10月
「八色の姓を作りて(中略)一つに曰はく真人、二つに曰はく朝臣、三つに曰はく宿禰、四つに曰はく忌寸、五つに道師、六つに曰はく臣、七つに連、八つに曰はく稲置。」
姓を賜ひて真人と云う。
守山公、路公、高橋公、三國公、當麻公、茨城公、丹比公、猪名公、坂田公、羽田公、息長公、酒人公、山道公の13氏。
6.天武13年11月 姓を賜ひて朝臣と云う。
大三輪君・大春日臣・阿倍臣・巨勢臣・膳臣・紀臣・波多臣・物部連・平群臣・雀部臣・中臣連・大宅臣・栗田臣・石川臣・櫻井臣・采女臣・田中臣・小墾田臣・穂積臣・山背臣・鴨君・小野臣・川邊臣・櫟井臣・柿本臣・軽部臣・若櫻部臣・岸田臣・高向臣・宍人臣・来目臣・犬上君・上毛野君・角臣・星川臣・多臣・胸方君・車持君・綾君・下道臣・伊賀臣・阿閉臣・林臣・波邇臣・下毛野君・佐味君・道守臣・大野君・坂本臣・池田君・玉手臣・笠臣凡て52氏。
7.天武13年12月 姓を賜ひて宿禰と云う。
大伴連・佐伯連・安曇連・忌部連・尾張連・倉連・中臣酒人連・土師連・掃部連・境部連・櫻井田部連・伊福部連・巫部連・忍壁連・草壁連・三宅連・兒部連・手すき(糸+強)丹比連・靫丹比連・漆部連・大湯人連・若湯人連・弓削連・神服部連・額田部連・津守連・縣犬養連・稚犬養連・玉祖連・新田部連・倭文連・氷連・凡海連・山部連・矢集連・狭井連・爪工連・阿刀連・茨田連・田目連・少子部連・莵道連・小治田連・猪使連・海犬養連・間人連・舂米連・美濃矢集連・諸曾臣・布留連の50氏。
8.天武14年6月 姓を賜ひて忌寸と云う。
大倭連・葛城連・凡川内連・山背連・難波連・紀酒人連・倭漢連・河内漢連・秦連・大隅直・書連併せて11氏。