スポット088(4/7) 「百嶋神社考古学」からみる古代の伊豫国 “山田 裕論文の掲載について”

20170227

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


第二章 『御鎮座本縁』が記す第七代孝霊天皇の御代に起こった国内の動乱


『社記』、『年譜考』は、「孝霊天皇の御代に天候不順による五穀が実らず万民が愁い苦しんでいるのを哀れみ、斎戒沐浴して天神地祇に祈った。」としているが、『御鎮座本縁』は、「天下穏やかならず、順はざる民多く叛く。茲に因りて、天皇、大己貴神に盟ひ、天下平らかに国民順はしめんことを祈り給ふ。云々」とある。

この国内動乱について、『記紀』に該当する記事はなく、『魏志』倭人伝は倭国の動乱記事を記述している。また故百嶋由一郎氏は講演会の中で、倭国の動乱について言及している。

『魏志』倭人伝並びに故百嶋氏の講演録から、倭国の動乱を検証すると

1.『魏志』倭人伝(『新訂魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 石原道博編訳岩

波文庫』)

1)倭国乱れる

「その国、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること暦年。」

故古田武彦氏は『邪馬一国への道標―角川文庫81p82p』で、「暦年」の用例を調査して、「暦年」とは、おおよそのところ、“七、八年くらいの間”とし、また戦乱の時期を魏代(後漢の滅亡、220年)内のこととしている。

➀戦乱期間(暦年)-➁「即位~遣使」期間-③遣使(景初二年、238

   ②の期間を“それほど長い期間ではない”としている。

   故古田氏の説に従い、➁の期間はおおよそ3年ほどとすると➀の期間は

 238年-3年=235

 235年から7年~8年以前、すなわち227228年~235年ごろと推測される。

2)狗奴國との闘い

   「その八年(正始八年、247)、太守王頎官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾張政等を遣わし、因って詔書・黄幢を齎し、難升米に拝仮せしめ、檄を爲りてこれを告諭した。卑彌呼以て死す。」

卑彌呼の死因とその時期は明らかでないが、おそらく、国を治められないことを恥じ、かつ狗奴国との和平実現ために自ら死を選んだと考えられる。その時期は正始八年から一年以内、247248年と考えられる。

3.卑彌呼死後、男王が立ったもののさらに戦乱が広がる。

   「卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、国中服せず、更々相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王となし、国中遂に定まる。」

卑弥呼の宗女壱与が王となった年は、文面からは明らかではないが、『晋書』巻九七 四夷伝・倭人条の下線部を引用して、「泰始初」を泰始元年(266)とし、壱与が魏の後継国である晋に貢献したとする説がある。

「宣帝之時平公孫民也其女王遣使帯方朝見其後貢聘不絶及文帝作相又數至泰始初遣使重譯入貢

西晋は司馬炎によって建てられた王朝(265316年)で、「宣帝・文帝」は司馬炎によって、追諡された「帝号」であり、正しくは倭国から魏への朝貢記事である。「泰始初」の記事には、女王の記述がないので、壱与の即位年代は不明である。

「宗女」とは、本流の血筋をひく女性と考えられるが、卑弥呼は独身なので子がいるはずもなく、男弟王あるいは男弟王の子供の直系女子が該当すると考えられる。

2.「神々の系図」

同系図や故百嶋氏の講演録によると、

1)倭国乱れる

   故百嶋氏は『魏志』倭人伝記事について、何十年かのことをごちゃまぜにして圧縮して書いているので、そのまま信じると間違えてしまうと述べられている。「倭国乱れる」の実態は、神武天皇に対して反乱を起こしたのが長髄彦で、この反乱を早期に終息させた功労者を阿蘇「多氏注1」の統領草部(くさかべ)吉見(よしみ)神(亦の名天忍穂耳命・天児屋根命・級長津彦・大年神・安日彦・海幸彦など多数)としている。

   「神々の系図」による長髄彦の父は、(そく)注2のイザナギと瀛氏のイザナミ(金山彦の妹)との間に生まれたのが、天日(あめのひ)(ぼこの)(みこと)(日本名スサノオ)である。スサノオは朝鮮半島から九州へ進出し、櫛稲田姫(金山彦の妹)という高貴な女神との間に生まれたのが長髄彦(ながすねひこ)(亦の名(ふなと)神)である。

*注1 「(おほ)氏」 (海南島→台湾→日本)

  皇別氏族屈指の古族であり、神武天皇の子の神八井命の後裔とされるが、確実なことは不明。(Wikipediaより)

 故百嶋氏は、「多氏」は雲南省麗江のヘブライ系黎族の王多将軍の一族としている。彼らは海南島から台湾を経て紀元前後に南九州に上陸。初代「多氏」統領は神沼河耳命(贈綏靖天皇)、第二代は草部吉見(贈孝昭天皇)。神八井耳命(贈安寧天皇)は「多氏」の庶流と故百嶋氏は指摘されている。

*注2 「(そく)氏」(新羅→日本)

新羅第四代の王脱解尼師今(在位年代5780年)。『三国史記』新羅本紀・脱解尼師今紀によると、倭国の東北一千里のところにある多婆那国の出身

2)狗奴国との闘い

   長髄彦の乱の終結後、ほどなくして発生したのが狗奴国の乱で、首謀者は越智族の祖大山祇神で、この乱を終息に導いた功労者も草部吉見神(亦の名海幸彦)としている。乱の首謀者である大山祇神の息子である大己貴神は責任を問われる立場にあったが、不問に付されたようである。

大山祇神は九州を去り、大三島へ渡ったと考えられる。

3)卑弥呼死後に起こった戦乱

   第二代の懿徳天皇の后天豊津姫を略奪したのが阿蘇「多氏」庶流の()(ぎし)(みみの)(みこと)(亦の名建盤龍命)である。天豊津姫は略奪された後の変名が阿蘇津姫で、父は阿蘇「多氏」の統領草部吉見、母は高木大神の娘拷幡千々姫(たくはたちぢひめ)で、高貴な女神にふさわしい系譜を有している。

阿蘇津姫を担いで手研耳命は各地で暴れまわり、懿徳天皇は重なる大失態を恥じて退位したか、あるいは失意のうちに亡くなったのかは不明だが、後継者の孝霊天皇の御代にあっても事態は改善されなかった。

茲で事態収拾の労をとったのが、春日大神(=草部吉見神)で、阿蘇津姫を取り戻し、豊玉彦と娶せ、それぞれ寒川彦、寒川姫に変名された。

 (4)小結

    『御鎮座本縁』が記す孝霊天皇の御代に起こった国内動乱の真相は、手研耳命と阿蘇津姫によって引き起こされた暴動であると考えられる。

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20170227

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


4.『伊予三島縁起』(『続群書類従第三輯下神祇部595596p

  「三國佛神無非彼孫

    天神第六代面足尊・偟根尊末孫代々異國敵誅伐目録

  端政二歴庚戌 自天雨降(あまくだり)給。八代孝元天皇位。此御代東海道発立。從異國責日本。代々面足尊依末孫

御合力給也。伊勢天照大神御祖父也。人王九代開化天皇位。同四十八年従異國朝渡。同朝敵亡。

十代崇神天王位。山陽道初立。國々社初。此代熊野宮天降給云。面足尊御子也。熊野兩所権現云。

春日月號两所権現。西御前伊弉諾。中御前伊弉冉尊也。是两所天照大御神御父母也。(後略)」

同史料は日本語漢文であるものの、内容の難解さ故か、一般的には知名度の低い史料である。難

解部分に絞って、逐条的に解説を試みると

1)端政二歴庚戌自天雨降給 八代孝元天皇位。

   「端政」年号は、「ニ中歴・海東諸国記・襲国偽僭考」等に記録されている「古代逸年号」の一つ、あるいは故古田武彦氏が『失われた九州王朝-ミネルヴァ書房』で主張された「九州年号」の一つで、同年は「崇峻天皇三年、西暦590年」に相当する。

「雨降」は「あまくだり」の読みが付されている。神社の縁起類にはしばしばみられる用例である。

 (2)「春日月號两所権現」

    「春日月」は管見に見えないが、「兩所権現」は、「熊野那智大社・熊野速玉大社」を指すと考えられる。この両大社の主祭神は西御前に祀られ、熊野那智大社は「熊野夫須美神」、熊野速玉大社は「熊野速玉神」を祀っている。前者をイザナミ、後者をイザナギとし、熊野本宮大社の主祭神は「家都美御子神」でスサノオに比定されている。

    故百嶋氏は「熊野夫須美神はイザナミ」「熊野速玉神は大幡主」「家都美御子神はイワナガ姫」と指摘されている。

『熊野権現垂迹縁起』によると

「唐の天台山の王子信(王子晋、天台山の地主神)が、日本の鎮西の日子の山峯(英彦山)に天降り、その後伊予国の石鎚の峯(石鎚山)・淡路国の遊鶴羽の峰(諭鶴羽山)を経て紀伊国牟婁に渡られ、熊野新宮の南の神蔵の峯に天降られた。その後、新宮の東の阿須加の社の北、石淵の谷に勧請し奉った。初めは結玉家津美御子と申した。二宇の社であった。それから13年が過ぎ、壬午の年、本宮大湯原(大斎(おおゆの)(はら))の一位木の三本の梢に三枚の月形に天降られた。(後略)」

この三枚の月形とは、「三日月」を指すと考えられ、弓弦の両端は兩所権現となる。すなわち、「春日月」とは「三日月」を比喩的に表現したと考えられる。 

5.「神々の系図」

  上記史料の疑問を解明する手掛かりとして、同系図を検証すると

 (1)面足尊

    面足尊は初期九州王朝親衛隊長で鉱山の神金鑚大神こと瀛氏注1の総大将金山彦。最初の妻は大山祇神の姉大市(おち)の姫、御子には神武天皇の后アイラツ姫(『記』の阿比良比売、『紀』では吾平津媛)、二番目の妻は草野(かやの)姫(亦の名埴安姫)、御子には櫛稲田媛(瀬織津姫)がある。

 (2)偟根尊

    偟根尊は草野姫。白族注2の王白川伯王の娘、姉玉依姫は神武天皇の御母、兄は大幡主。最初の夫金山彦と別れた後、大山祇神と再婚し、御子には神大市姫・大己貴神・木花サクヤ姫がある。

 (3)大山祇神

    亦の名を月読命、越智族の祖。父は金海伽耶の総大将金越智。日本名はウマシアシカビヒコチ(『記』は天神四代宇摩志阿斯訶備比古遅の神、『紀-神代上第一弾一書第一』では、天神初代可美葦牙彦舅尊と表記)、母は天之御中主(亦の名を白山姫・『記』が記す菊理姫・国常立尊)。姉に大市の姫。妻草野姫との間に神大市の姫(亦の名を(みず)象女(はのめ)、『記』は大山祇神の御子とある)、大己貴神(大出世した時の名は大国主)、木花サクヤ姫(『記』は木花佐久夜毘売、『紀』では木花開耶姫と表記、瓊瓊杵尊の妃)がある。

 (4)大己貴神

    金山彦の後継者で、中期九州王朝親衛隊長となる。最初の妻はスセリ姫、亦の名を(おき)津島(つしま)(ひめ)、市杵島姫(『記』は須勢理毘売命、須世理毘売命と表記)、御子に下照姫、二番目の妻は豊玉彦の娘豊玉姫。大出世を遂げた後の称え名が大国主命。

 

以上のデータから、以下の帰結が得られる。

 ・面足尊は初期九州王朝の親衛隊長金山彦。卑弥呼とほぼ同世代で、二番目の妻草野姫(亦の名埴安姫)と共に3世紀半ばごろに伊予へ進出したと考えられる。

偟根命は大己貴神の母、草野姫

初期九州王朝親衛隊長金山彦の後継者が大己貴神

陽神和太志尊は大山祇神。金海伽耶の王金越智(日本名はウマシアシカビヒコチ)と共に日本列島に渡った渡来神。卑弥呼とほぼ同世代で、主人筋である最初の妻草野姫に従い、伊予へ進出したと考えられる。

陰神鹿屋野比賣は草野姫

なお、『伊予三島縁起』に「十代崇神天皇の御代に、熊野宮に天降りされたのが面足尊の御子」と

記されているが、「神々の系図」を検証すると「面足尊の後継者大己貴神」と考えられる。

 最後に、大山祇神社の最も古い神事に「毎年1月7日に行われる生土(しょうど)(さい)」を紹介する。

 同神事は「安神山」の赤土拝戴神事を斎行し、「御串山」の榊枝と共にお迎えする神事で、神前に清められた赤土を献供し、宮司以下全員が額に赤土の神印を拝戴し、続いて串木を持ち、素朴な楽を鼓に和して奏する神事が伝えられている。

「生土祭」の根幹をなすのが「赤土すなわち埴」であり、「草野姫、亦の名埴安姫」が同祭の信仰対象であったと考えられる。


注1 (いん)()(中国→日本列島)

     イスラエル系黎族の大将金山彦の中国時代の姓「瀛」を名乗る氏族。徐福伝説で名高い徐福の姓「徐」は、『元和姓纂(当の元和7年(812)林宝によって編纂された姓氏辞典)』によると徐は「瀛姓」、伯益(堯・舜・禹の三代に仕えた賢臣)の裔とある。 司馬遷の『史記』巻百十八「淮南衡山列伝」によると、秦の始皇帝(在位紀元前246221年)の命を受け、徐福は不老不死の薬を求めて東方に船出し「平原広沢」を得て、王となり戻らなかったとの記述がある。「瀛州」は後に日本を指す名となった。

   注2 白族(雲南省→海南島→琉球列島→九州)

     モーゼ以前のヘブライ人で、イラン・インドを経て中国に渡り、黎族とも呼ばれた。白族の王は、代々、白川

    伯王を名乗り、紀元前後に日本へ移住

その後、「奴の国王」「刺国大神(太政大臣)」とも呼ばれ、後継者である大幡主は博多の櫛田神社の主祭神とし

て祀られている。福岡市博多区の「大博通り」にその名をとどめている。

注3 越智族(朝鮮半島→壱岐→九州)

  朝鮮半島の南部から中部にかけてあった金海伽耶国を支配していたトルコ系匈奴の一族を指す。3世紀初め頃に同国の王、金越智(日本名ウマシアシカビヒコチ)が息子である大山祇神(亦の名月読命)と共に日本へ移住。大山祇神は日本における越智族の祖となった。

なお、壱岐島の月読神社には、馬上にまたがり、太刀を佩いた月読命の絵が奉納されている。また、『皇太神宮儀式帳』に「月讀命。御形ハ馬ニ乗ル男ノ形。紫ノ御衣ヲ着、金作ノ太刀ヲ佩キタマフ」とあり、馬上の姿は匈奴を彷彿とさせる。

松山市東部に接する東温市牛渕の浮嶋神社に大山祇神の父「可美葦牙彦(うましあしかびひこ)()尊」が主祭神として祀られている。同神を祭る神社は極めて少なく、大山祇神と共に伊予に同行したと考えられる。


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スポット088(2/7) 「百嶋神社考古学」からみる古代の伊豫国 “山田 裕論文の掲載について”

20170227

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


第一章 古代の伊豫国をいろどる神々

古代の伊豫国で祀られた最も古い神々に関する史料が現存している。それが、大山祇神社に関わる四史料で、面足尊と偟根尊を記録している。この両神について、それぞれの史料から検証を進めたい。

1.「三島宮御鎮座本縁並寶基傳後世記録(以下、「御鎮座本縁」と略す)」

 「七代の天皇日本根子彦太瓊天皇(孝霊天皇)、日本国黒田廬戸宮にて天照大神相與に大山積皇大神と祀り給ふ。是れ三島神徳の始めなりと云々。伝に曰く、此の御代、天下穏やかならず、順はざる民多く叛く。茲に因りて、天皇、大巳貴神に盟い、天下平らかに国民順はしめんことを祈り給ふ。大巳貴神夢に告げて曰く、君、天下平らかに国民順はんことを(こいねが)ひ給はば、先ず面足・偟根尊此の二柱の神を祭るべし。是則ち大山積大神なり、と申し教へ給ふ。これに依りて天照大神と相与に祭り給ふと云々。」

  伝承が錯綜し、不明な点はあるものの、要旨は、以下の三点である。

 (1)黒田廬戸宮が何処にあったのかは不明だが、孝霊天皇は天照大神と大山積皇大神を祭祀

 (2)孝霊天皇が国内の乱れに苦慮していた際に、大巳貴神に祈ったところ、同神が夢枕に顕れ、面足・偟根尊を祀るべしと託宣。

 (3面足・偟根尊の二柱とは大山積皇大神である。

  伝承が記す面足・偟根尊、大山積皇大神、大巳貴神について『古事記、以下『記』と略す』、『日本書紀、以下『紀』と略す』から検証すると

 ➀面足・偟根尊

   『記』天神第六代、それぞれが獨リ神

   『紀-神代上第一段一書第六』天神第六代

   『紀-神代上第三段一書第一』天神第三代

 ②大山積皇大神

   『記』

イザナギとイザナミの御子、大山津見の神、妻は鹿屋野比売神、亦の名を野椎の神。

『紀-神代上第五段一書第七』

イザナギが剣でカグツチを三段に斬ったところ大山祇神が生まれる。

『紀-神代上第五段一書第八』

イザナギが剣でカグツチを五段に斬ったところ大山祇神が生まれる。

  ③大巳貴神

『記』

スサノオ六世の孫大国主神、亦の名を大穴牟遅神、芦原色許男命・八千矛神・宇都志国玉神。

『紀-神代上第八段本文』

スサノオと妃奇稲田姫との間に大己貴神が生まれる。

   『紀-神代上第八段一書第一』

スサノオ五世の孫大国主神

  『紀-神代上第八段一書第二』

   スサノオ六世の孫大己貴神

  『紀-神代上第八段一書第六』

   大己貴神、亦の名に大國主神・大物主神・國作大巳貴神・芦原醜男・八千矛神・大國玉神・顕國玉神。

  煩雑を避けるため、以下大己貴神と記す。

 以上の系譜からは、面足尊・偟根尊・大山積皇大神・大己貴神のそれぞれの関係は不明である。

ところで、大山津見の神と大山祇神であるが、大山津見の神は「海の神」、大山祇神は「山の神」と

するのが一般的だが、ご神格は相違するものの大山祇神社は「山の神と海の神」が習合する神社であり、本稿では大山津見の神と大山祇神は同一神であるとの前提に立ち、論を進める。

大己貴神の時制について『記紀』は錯綜しているが、時制の鍵となるのが「国譲り」の場面である。

『記紀』ともに、天照大神が大己貴神に「国譲り」を迫り、加えてスサノオは天照大神の弟とする

系譜より、天照大神・スサノオ・大己貴神の三神がほぼ同時代の神であるとこが確かめられる。

また、スサノオの娘スセリ姫が大己貴神の妃であることより、大己貴神が天照大神やスサノオより

も年少の神であることが確かめられる。

『御鎮座本縁』は面足尊・偟根尊を大山積皇大神としているが、その名からも面足尊・偟根尊は一

対の神でないことは明らかで、それぞれ独立神と考えられる。

『記紀』ともに、孝霊天皇の御代に国家が動揺する反乱事件記事は見当たらない。第二代綏靖天皇から第八代孝元天皇までに起こった主要な事件は、「神武天皇の後継を巡り、長兄タギシミミ命が弟のカヌマミミ命(後の綏靖天皇)に弑逆された。」と伝えている。

だが、事件の本質は「目下のものが目上のものを殺す意を表すのが弑逆」であり、国家が動揺す

る事件ではない。

同史料は、宝歴四年(1754)太祝越智安屋が執筆。原典は三島神社に伝わる『臼杵三島神社記録』

とされるが、真偽は不明である。臼杵三島神社は天応元年(781)に大三島より勧請されたとする由緒を持つ。越智安屋は、編集姿勢について自らの考えに基づいたとしている。

2.『社記』(132 p

 「孝霊天皇御宇。天地不和。寒暑失時。五穀不熟、万民愁苦。是以天皇斎戒沐浴、敬祭天神地祇、祈五穀豊穣焉。或夜天皇夢有一神人。訓之曰、天皇若憂國之不治者、宜祭面足尊・偟根尊・大山祇神。必五穀成就。答曰、我是地神大己貴神也。於天皇随夢訓、祭-面足・偟根尊大山祇神於大殿之内。是以風雨順、百穀成、天下平矣。是即當社神徳之初現也。」

  要旨は『御鎮座本縁』とほぼ同じ内容だが、相違するところは以下の二点である。

 (1「天照大神」に代えて「大山祇神」を祀る。

 (2「面足尊・偟根尊の二柱は大山積皇大神ではない。」と否定。

  同書は論理的で、『御鎮座本縁』より一歩進んだ史料と評価できる。天明二年(1782)太祝越智宿祢玉振の執筆による。

3.『年譜考』(156p)

  「人皇第七代 孝霊天皇御宇天地レ和、寒暑失時、五穀不熟万民愁苦む。是以て 天皇斎戒沐浴、敬祭天神地祇玉ふ。或夜 天皇夢に一神人有之、教て曰、天皇若患國之不治者、宜和足彦神・身嶋姫神・大山積神等、必五穀成熟して天下自平らならむ。天皇問曰、如何教は何神や。答曰、我是地神大己貴神也。於是天皇和足大神・身嶋姫神・大山積神等を大和國黒田廬戸宮ニて祭り玉ふ。自是風雨順時、百穀生熟して天下平安なり。如是即当社神徳の現れましし初なり。」

  同書は上記二史料を底本としているものの、大きな相違は「面足尊・偟根尊」に代えて「和足彦神・身嶋姫神」とする点にある。

  この聞きなれない「和足彦神・身嶋姫神」に関する史料が以下の二書である。

 (1)『釈日本紀』所引の「伊豫国風土記逸文」

   「宇知郡(越智郡の誤記)御嶋、座す神の御名は大山積の神、一名は“和太志の大神”也。この神は難波の高津の宮の御宇しめしし天皇(仁徳天皇)の御代に顕れましき。此神百済の国より渡り来して、津の国の御嶋(現大阪府高槻市)に座しき。云々。御嶋と謂ふは津の国の御嶋の名也。」

2)『伊豫旧記編 神祇部』に収められた「大日本南海道伊豫国古神社祭録」明応三年(1494)藤原隆量編纂

   「陽神和太志尊・陰神鹿屋野比賣尊」とある。

この両史料から得られる帰結は、以下のとおりである。

 (3面足尊は“和太志の大神・和足大神・和足彦神・陽神和太志尊”とも呼ばれ、偟根尊は“身嶋姫神・陰神鹿屋野比賣尊”と呼ばれた。

 (4)和太志尊の「和太志」とは「渡し」の意で、百済(正確には金海伽耶)からの渡来神である。同様に和足彦神の「和足」とは「渡り」の意である。したがって、和足彦神と和太志尊は同一神である。

 (5身嶋姫神は陰神鹿屋野比賣尊と同一神である。

  同書の執筆者は不明で、明治四年ごろの成立とされている。 

 以上、三史料の出典は『大山祇神社史料・縁起・由緒-國学院大學日本文化研究所編集平成

12年発行』による。