福岡県朝倉市甘木
↑有名な三連水車
前の記事で、土日祝は甘木に建っている建売住宅のオープンハウスをし、平日も数日はその関係で甘木に来ていると書きました
私はいろんな地域に足を運ぶことが多いですが、特段甘木にはなぜか人生に影響を及ぼすような経験や感慨深い思い出が多く存在します
私と甘木には遠からずどころか近い縁があるのでしょう
また俺は甘木に帰ってきたか
そんな経験や思い出、特に大きい3つを今から書いていきたいと思います
■宅建■
■悲しい恋?■
■弟との遠出■
■宅建■
私は駅前不動産という会社で働いていました
今でも駅前不動産は、甘木に朝倉店という名前で元気に営業しています
私は23歳の12月1日から甘木店(当時は朝倉店ではなく甘木店だった)に転勤して勤めることになりました
誕生日が12月なのですぐ24歳になりましたが、福岡市早良区の西新店に異動するまで丸1年間甘木に勤めていました
私は短いスパンでの異動に狂っていたので、1年は長くいた方ですww
けどそのたった1年で本当に大きい経験をすることになりました
甘木に来る前は小郡市という、甘木と東西並びの市町村にて働いていました
甘木店に女性の店長がおり、この方が凄く成績が良くかつ指導も凄いということで、この方と一緒に働きたいと上司を説得し、念願かなって異動を勝ち取りました
この女性店長、私の在籍を振り返ったとき、店長としては駅前時代に最も尊敬する人物となります
とても優しく、面倒見がよく、でも怖かったです
自分のことをお母さんと呼んでいました
店長は当時29歳くらいだったかと思います
私は入社1年も経っていなかった新人でした
ちなみに甘木店に異動になった年の1月に私は入社したのですが、すでに甘木店が3店舗目でしたw
どんだけスパン短いんやと思うかもしれませんが、私は満足していました
それはいいとして
元々店長は学校の家庭科の先生をしていたらしいです
私たち部下を子供達と言っていました
だからこそよく怒られましたし、よく褒められました
仕事も早かったのか18時くらいから(当時19時が定時)キャスター付きのイスに座って足で地面を蹴り、右に左にと遊び始めます
そんな抜け感もある方のいる店舗でした
宅建を当時私は持っておらず、取りたいと思っていました
宅建は10月の第2日曜が試験日です
だいたい5月とか6月くらいから勉強を始めてスケジュールを立てていきます
7月くらいになっても私はほとんど勉強をしていませんでした
23歳と若かったので必要性も正直そこまで考えていませんでしたし、サマーボーイで海好きということもあり遊びほうけていました
それにお酒も当時飲めていましたし(今は全く飲めない)、駅前不動産甘木店に来るほんの1年前までは福岡市の天神のど真ん中でギャルに囲まれてアパレルの仕事をしており、そのときの仲間と遊んで過ごしていました
店長は7月くらいに店内にある個室を、あまり使わないからという理由で勉強部屋にしてくれていました
スケジュール組みから勉強方法から教科書の準備までしてくれ、そして壁いっぱいに応援メッセージを書いた紙を貼り、鼓舞してくれていました
嬉しかったですしやる気も上がりました
しかしなかなか勉強には手を付けず、楽しいことばかりに集中していました
店長にもちょくちょくちゃんと勉強しなさいと注意はされていました
8月に入りました
私は未だに遊んでいました
先輩社員にも昨日海に行っただの飲みに行っただの遊んでいることをしゃべっていました
そんなことをしていたら誰かからそれが店長の耳に入り、店長は怒り心頭になり、8月の初旬から3日間無視されるという事件が起こります
ビックリしました
いつも通り朝出社して、店長に挨拶したら無視されました
店長は普段明るかったので、なんか集中しすぎて聞こえていないのかなとか思いました
朝礼が始まりました
普通に明るく進めていましたけど、一人一人の予定を確認するときに、他にスタッフが2人いたのですが、彼らで終わりました
私の番にならずに次の話に進んでいきました
え?何で?何か私に怒っとらんか?
とは思ってはいましたが何も言わず、言われもせず朝礼は終わりました
そしたら怒ってんな、無視してんなと確信することが起きました
お昼です
いつも店長は私に「つっちゃん今日なん食べるー?♪」という感じで機嫌よく話しかけてきていました
それなのにその日は私以外にそういう声掛けをし、何食べるかメニューを楽しそうに決め、決まった後に私のところにも来るかなと思ったら無視して他の3人分だけ買ってきて食べていました
存在しない人として1日が終わりました
次の日も1日そんな感じでした、さすがに何でやと思って、先輩社員に夜聞きました
何で店長は私を無視するんですか?おらんもんとして扱うんですか?
と聞いたら、宅建の勉強やっとらんのに加えて、勉強せんはおろか飲み言ったとか遊んだとか言いよるけんよ、と返ってきました
そのときハッとなりました
個室を勉強部屋にしてくれたこと、私のためにたくさんの準備をしてくれたこと、いろいろと思い出しました
それなのに私はやれ海が楽しかっただの飲み行っただのと言いふらし、店長の優しさや期待を裏切りました
その瞬間から心を入れ替えました
店の雰囲気も悪くなっていたので先輩にも謝り、その夜から甘木店の個室で勉強をし始めました
8月の初旬なので、間に合うかは分からなかったですけど、とにかく一生懸命取り組むのみ
無視3日目、正直怖かったので店長に話しかけることも謝ることもできず、いつも通りの存在しない日が終わりました
その夜もまた個室で死に物狂いで勉強しました
無視4日目、朝礼はいつも通り存在しない人として扱われました
けどそのお昼
店長のお昼何にするー?が私に来ました
体は私の近くでしたが、どうせ私以外に言っているのだろうと思って最初は反応できませんでした
けどつっちゃんと言われたのでめちゃくちゃビックリしました
しかもめちゃくちゃ明るく言われました
どっか行くね?
そう言われました
2人で外食することになりました
店長の車に乗りましたが、私はいつもおしゃべりな方なのに、そのときは緊張しすぎて口が開かなかったです
会社を辞めるよう説得でもされるのか?
ほんとにその心配をしていました
そしたら普通にご飯食べて普通に帰ってきました
宅建の話も出ませんでした
店長なりの仲直りのメッセージだったのかもしれません
その後からは無視もなくなり、存在しない人としての時間が終わりました
めちゃくちゃ辛かったです
私が無視2日目の夜から勉強を始めたのですが、相談した先輩がそれを見ており、店長に心入れ替えて頑張っていると伝えてくれたそうです
店長からしたら宅建さえやってくれれば良かったので、それがクリアということで怒りが鎮まったのでしょう
当の私は二度とあんな目に遭いたくなかったので、めちゃくちゃ勉強しました
家では集中できなかったので休みの日も当時住んでいた大野城から甘木に来て、個室に丸1日缶詰で勉強していました
狂ったように勉強しました
元々朝は遅刻ギリギリだったのですが、6時半~7時には甘木にいました
夜も23時くらいまで甘木におり、家に帰ってからも目を閉じるまで勉強していました
誰からの誘いも全て断りました
海にも行かず、飲みにも行かず、ひたすらに勉強しました
ときどき店長は私が朝早く来ているということを信じられなかったのか、朝7時に何度か出社してきました
けど毎回私がちゃんといるので、ふむふむといった感じで自分の席に着いていました
試験日は10月中旬です、目安6か月は勉強が必要と言われる宅建です、8月の初旬から勉強を始めた私にはとにかく時間がなかったです
10月にもなると追い込みです
周りのスタッフも店長も私が狂信的に勉強をしていることを知っていたので、定時で仕事丸投げして良いと許可が下りていました
19時に店を飛び出し、銭湯に行き、ホカ弁を買って店に戻り、20時までに寝る支度を整え、あとはひたすらその個室で勉強をして、持ってきていた布団で寝るという合宿レベルの時間を1週間くらい続けました
皆さんの協力や期待に応えたいと思い頑張りました
試験日を迎え、回答を店舗に持ち帰り、店長が採点してくれることになりました
そしたら半分自己採点した時点でこりゃダメだと店長の中でなり、半分しか採点していない状態で返してきて、来年頑張ってと言われました
やっぱダメやったかと思っていました、悔しかったです
けど合格発表の日、なんと自分の番号がありました
宅地建物取引主任者から、宅地建物取引主任士という名称に変わり、士業への格上げという理由で合格率を下げるという調整が入り、問題も難しくなっていた年でした
そしたら皆点数が悪く、難しくし過ぎて、普段落ちるであろう点数が合格点になっていました
何とか宅建を取得することができました
どれもこれも自分が勉強を頑張ったことはもちろんのこと、周りの協力や店長の叱責あってこそ本気になれたので、店長には特に感謝です
そしてご迷惑をおかけしました
この宅建という資格は不動産営業マンにとってなくてはならない称号です
早いうちにとれたことはその後の駅前不動産人生でも有利に働きましたし、今の会社でも唯一免許を持っているスタッフとして重宝されています
女性店長と出会えなければ私はもしかしたら宅建取得までもっと時間がかかっていたかもしれません
ありがとうございます
けどほんとに無視は辛かった、存在しない者として扱われるのがこんなに苦しいのかと、ドラマのワンシーンかと思いましたよ
私は胸を張って言いたい、甘木で宅建をとったんだと
これだけで長くなったので以下は次にまわしたいと思います
■悲しい恋?■
■弟との遠出■
以上