57歳、そして母のこと | ゆうき・NAGANOから世界へ!

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裕氣塾代表の原田ゆーじが日々のことを綴ります。

本日、57歳の誕生日を迎えました。

小学生の頃は50代といえば
「おじいさん に近い おじさん」と思っていましたが
いざ、なってみると
おじいさん…ではないですね。
実際、孫はまだいないし。
が、しっかり「おじさん」ではあります(笑)
 
気持ちはまだまだ若いというか
20代と変わらないと言いましょうか
さらにメラメラと…
なんせ未だに「真の武道家」を目指しておりますので。
 
誕生日を記念して「母・ふさ子」さんのことを。
実は母は昨年の2月8日に亡くなりました。
身近な人間には知らせましたが
殆どの友人・知人には知らせていません。
 
葬儀は親族を中心に行いました。
親族を代表して挨拶をしました。

内容は以下の通りです。
母の人となりがお分かりいただけると存じます。
長いですが、よかったらお読み下さい。
 
本日はお忙しい中、また遠路、寒い中お越しいただき、誠にありがとうございました。
母生前中は皆様には大変お世話になりました。
 
母ふさ子は大正13年3月25日に山梨県南都留郡秋山村(現在の上野原付近です)で生を受け、
高等小学校を卒業してすぐに女中奉公に出て、そのご一番上のお姉さんを頼って上京、
丸の内でお給仕の仕事をしました。

戦争中は親からの帰ってくるようにの再三の連絡にも、自分が帰れば皆の食べ物が減ると帰らず
大空襲の中、東京で一人逃げ回っていたそうです。

戦後、東芝に勤めて、演劇部で活躍、その時に父と知り合い、大恋愛の末結婚。
父が郷里の平塚に仕事があり、移住。
兄が生まれて、現在の花水台に引っ越しました。
大借金で土地を買い、家を建てたので、子育てをしながら、昼夜と内職をしたそうです。

その後、父の「二人の子どもを大学に出す!」という考えに賛同し
「お父さんの収入だけでは無理」と世界でも有数の香料メーカーである高砂香料に入社。
定年まで勤め上げました。
定年後も働くことが好きなので料理関係のところでパート等をしていたようです。

晩年は膝の大手術、2回の目の手術、潰瘍性大腸炎等の病気になりながらも
父の食事を含め家事の一切を手掛けていました。
が、昨年の5月に心不全で入院、入退院を何回も繰り返し遂に力尽きました。
でも、亡くなるまで頭はしっかりしていました。
 
母の思い出を2つ話させて下さい。
1つは私たちが3、4歳の頃の話です。
内職の品を納めるということで二人に火の用心のため
コタツや明かりは点けないように言いつけて出掛けたそうです。
用事が重なり帰ってきた時にはもう暗くなっていました。
暗い部屋を見ると二人の息子が母の言いつけを守り
隅の方でくっついて震えながら待っていたと…
それを見た母は「この子達のためなら何でもできる」と
なお一層、寝ないで内職に励んだそうです。
 
2つ目は私達が小学校の高学年になり
高砂香料に勤めた時の話です。
最初は臨時雇いで入り、勤勉さが認められ正社員となりました。
その後、不景気になり人員削減のためか輸出関係の部署に配属になり
外国語を扱わなければいけなくなったそうです。
高等小学校しか出ていない母ですから英語他外国語など分かろうはずがありません。
ですが、ここで辞めては子ども達が大学へ行けないと辞書片手に頑張り続け
無事、定年まで働き通しました。
その退職金で現在のあの立派な家があります。
 
今後は母の遺志を継いで、父を助け、兄弟仲良く精進して参る所存ですので
どうか変わらぬお付き合いとご指導、ご鞭撻のほどよろしくお願い致します。
 
最後に母に一言だけ言わせて下さい。
お母さん、ありがとう。
あなたは本当に素晴らしく、立派な人でした。
お母さんの作る「煮物」は天下一品でしたね。
お母さんは僕の誇りです!
これからお父さんを助け、兄と仲良く
そして、夫婦、子ども達とも仲良く一所懸命生きていきます。
怠けたりしたら、どうか天国から叱って下さいね、お願いします。
ほんとに本当にありがとう…ありがとうございました。
 
本日は誠にありがとうございました。
 

ある程度は頭にありましたが
当日の朝、風呂に入りながら考えました。
母との思い出が次々に浮かんで
涙が止めどなく溢れ出てきました。
 
公の場で話す時「どもる」癖があるので
上手く挨拶が出来るか心配しましたが
母が力を貸してくれたのでしょう
正直な気持ちを伝えることが出来たと思います。
 
 
イメージ 1
若かりし頃の母と私
 
57歳の誕生日にあたり
「真の武道家」になるという大目標に向かい
気持ちを新たにした次第です。
 
お母さん、どうぞ見ていて下さい。