家事の合間の一服中。

 

何気に 携帯で ニュースを見ていた。

 

 

 

 

『目黒女児虐待死』

 

この記事に ふと目が行く。

 

 

 

 

どこにでも 転がっている 『虐待』

 

慈しむべき命を

 

未来ある 可能性の塊である 命を

 

己のエゴで 消し去る行為は 許し難い。

 

 

 

 

思うように行かない事で それを怒りに変える愚かさ。

 

みんな 口を揃えたように 同じ文言を唱える。

 

 

 

『子供の将来を考えて 厳しくしてる。』

 

『言われても出来ないなら 殴るしかない。』

 

『子供が出来なさ過ぎるんだ。このままで良いのか?』

 

『子供が好きな事 楽しい事を全部 奪ってやればいい。』

 

 

 

まるで どこかに 虐待に至るための導きたる本でもあるのか?

 

って 思うほど みんな 同じ文言を唱える。。。

 

 

 

そして これは 『虐待ではない。』 と 必ず言う。

 

 

 

そりゃ 確かに ここからが虐待で ここまでは躾だと

 

確かな 線引きは出来ないけれど

 

私は 子供の心を傷付けたり 

 

自尊心や 夢や楽しみを 奪った時点で

 

『虐待』 だと 思ってる。

 

 

 

それを 虐待だと思わず 躾だと言う人には

 

いくら  説明したところで 理解はして貰えない。

 

 

 

なぜなら それが正しいと信じ 行っているから。

 

 

 

 

当たり前の事が 出来ていない。

 

強くたくましく 生きて欲しい。

 

そうした 色々な想いがあるのは 自由だ。

 

 

 

でも それが 正しいと言い切るのは おかしい。

 

 

 

 

子育て。

 

何が正しくて 何が間違いかは 親が決める事では無く

 

本来 子供本人が決める事。

 

それでは 子供の甘えが そこに生じてしまうから

 

子供をよく見て育てて来た親に 責任が与えられているのだと

 

私は 思って来た。

 

 

 

 

鬼のように 厳しい母親だと 言われて来た私だったが

 

子供と一緒に たくさん笑って たくさんたくさん 愛情で繋がり

 

子供が自分で選んで 自分で積み上げて来たモノを

 

奪う事も 壊す事も 絶対にして来なかった。

 

お金が無くて 子供のやりたい事が 出来ない時は

 

締め切りギリギリまで 金策に動き

 

どうしても それが叶わなかった時 

 

私は 子供達に 頭を下げた。

 

悔しくて悔しくて 泣きながらも 頭を下げた。

 

 

 

 

『お金が無いから 仕方ないやろ。』 とか

 

『そんな事より 生活の方が大事だ。』 なんて

 

絶対に 言わなかった。

 

 

 

 

そんな 私を見て育った 上の子達は

 

『恐ろしく厳しい母親だったけど 

 

  その背中を見て育つ事が出来た事に 感謝しています。

 

  いつか お母さんを超えてやる!

 

  お母さんの子供に生まれて来れて良かった。 お母さん ありがとう。』

 

そう 言ってくれた。

 

 

 

 

虐待か 躾か。

 

それは それを与えられる子供側が どう感じるか。

 

 

 

『こんなに 大事に大事にしてるのに どうして分からない?!』

 

なんてのは 親の勝手な想いだろう。

 

 

 

あれをしろ、これをしろ、と 言う前に お前がしてみろ。

 

あれが出来てない、これが出来てない、と言う前に

 

お前が 出来て無い事を 全てやってから言ってみろ。

 

 

 

やれ 「仕事が忙しい」

 

やれ 「疲れてる」

 

やれ 「時間が無い」

 

 

そんな 言い訳は 聞いてない。

 

子供の言い訳を 聞けないなら

 

親は 一切 言い訳をするな、と 私は思う。

 

 

 

子供が 学校や部活が 忙しいとか

 

友達と遊ぶのが 忙しいとか

 

帰ったら ほっこりして 眠くて時間も無い、とか

 

幸せな話だと 私は思う。

 

 

 

 

でも 偉そうな親は言う。

 

学校なんか 当たり前、友達と遊ぶのは お前の勝手。

 

宿題や家の手伝いをするだけの余裕を持って遊べ。。。

 

 

 

 

それを 言うなら

 

仕事や家事は 当たり前。

 

子供に 優しく笑顔で語りかける余裕を いつも持ってろ。

 

私は そう思う。

 

 

 

 

自分が 選んで 今を生きているなら

 

自分が 選んでした事を 言い訳の理由に使うな、と思う。

 

 

 

その年になって こんな事も出来ないのか!? と

 

子供を 罵る親は 少なく無い。

 

5歳になったら、10歳になったら、15歳になったら。。。

 

そんな 線を引かれて 出来なければ出来損ない、みたいな

 

そんな育児は 終わってる。

 

 

 

50歳になっても 出来ない事はある。

 

苦手だったり、嫌いだったり、その理由は様々でも

 

確実に 完璧な50歳など 居ないだろう。

 

 

 

10歳程度で このぐらい出来て当たり前、という項目が

 

存在するなら 50歳になったら 

 

一体 どれだけの 完璧な人間が出来上がるんだろう。。。

 

その方が 恐ろしい。

 

 

 

得意不得意が あるのが人間。

 

得意を伸ばし 不得意を鍛えるには

 

まず  何事も 心を満たしてやらなくてはいけない。

 

 

 

何で 満たすか知ってるか?

 

それは 『愛情』

 

それ以外の何でもない。

 

 

 

子供が求めている 『愛情』 だ。

 

親の 勝手な想いの 『愛情』 なんかじゃない。

 

親の勝手な想いの愛情など 

 

ただの 『自己満足』 に過ぎない。

 

 

 

子供の未来や 子供の将来を想うなら

 

まずは どれだけ苦手であっても

 

子供を抱きしめるぐらいの愛情を 与えてみろ。

 

 

 

子供は 自分から動き出す。

 

その愛に 一生懸命 応えようと 子供なりに動き出す。

 

その 行動をしっかり見守り 

 

不安そうな時に そっと手を差し伸べるだけ。

 

 

 

子供はその 差し伸べられた手が 嬉しいのではなく

 

その不安に 気付くほど

 

自分の事を 気にかけて貰っていたことが 嬉しいんだ。

 

 

 

いじめを受けている事すら 気付いてやれない親がいる。

 

親からしたら 小さな小さな事で 悩んでる子供達。

 

まだ 小さな器で まだ 狭い世界で

 

子供は 子供なりに 多くを築き 多くを感じ 多くを悩んでる。

 

 

 

 

そこに 躾だと言って

 

あれをしろ、これをしろ、なんて

 

まともに 頭になんか 入るわけが無い。

 

言われれば 言われる程 嫌になる。

 

    

 

 

私は 子供の頃 

 

『あんたやったら このぐらい出来て 当たり前やろ。』 

 

と 言われた事がある。

 

だから私は 言った。

 

「あぁ このぐらいなら やってやるけど

 

 今の私に ここまでを求めるなら 

 

 私の親である あんたら親は 毎月100万以上 稼げよ。』

 

 

 

 

中学三年の ゆかまるは そういう感じだった。

 

中学で 全ての教科のテストを 90点以上取って来い。。。

 

塾にも行かされず その頃で言う ヤンキーだった私に

 

親が言い放った 言葉の後には

 

『取れなかったら 友達と遊ぶの禁止。』 だった。

 

 

 

 

『私が 90点以上取った時 

  毎月100万稼いでこれないなら 偉そうに言うの禁止な。』

 

私は 全ての教科で 95点以上を取って

 

偉そうに言われる事が 無くなった(笑)

 

 

 

 

ゆかまるの場合 文武両道という 自分の目標があった。

 

勉強も運動も 得意分野ではあったが 

 

中学3年で 全教科90点以上は なかなか難しかった。

 

オール100点を目指して テスト前も遊びに出ながら

 

頭の中で 予習復習(笑)

 

得意分野だったから 出来た事だろう。

 

 

 

友達と遊ぶことは 学生にとって 宝物の時間。

 

ゆかまるは 家事など 全く出来なかった。

 

お米を研げば 半分以上は 排水溝に流れて行った。

 

洗濯をすれば 洗剤が衣類に こびりつくほど投入し

 

靴を洗えば 水きりで振り回し

 

家の前を通る車に ブチ当てて こっぴどく叱られた。

 

 

 

 

それでも ゆかまるは お母さんとして

 

どんな事もこなせる人間になった。

 

パパに認めて貰い 褒められて 育ったから

 

自尊心は 強靭なモノになったからだ。

 

「成せばなる」 そう思ってた。

 

 

 

将来を案じるよりも 今をどれだけ 大事に充実させてやれるか

 

先に そこを考えた方が 絶対に いい。

 

嫌でも人間は 大人になって行く。

 

自分で 生活をし 誰かの世話や面倒を見る事になる。

 

その中で 必ず 悪戦苦闘して得て行くものがある。

 

その時に 充実した子供時代が無かったものは

 

挫折し 逃げる事を 覚えてしまってる。

 

 

 

 

我が子に 挫折と逃げる事を教えた男が この世に存在してる。

 

娘の事は 異性だからこそ 入り込めない部分があるから

 

牙を剥く矛先は 常に 息子に厳しく向いていた。

 

 

 

あれが出来てない、妹はこれもあれもしてるのに

 

お前は 何も出来ないのか。

 

どうしようもないな。施設でも入るか?

 

あれも禁止。これも禁止。

 

そして それでも出来ない息子に 酷い暴言と暴力で

 

『躾』 と称した 『虐待』 が 始まった。

 

 

 

 

『父親になりたいなら 優しさを持って強さを 教え

 

 語りの中で 自分から 反省点を見つけさせろ。』 

 

と ゆかまるのパパは 男に教えた。

 

『子供の将来を案じる心があるなら

 

 子供のうちは 自信を付けさせる事だけに専念しろ。』 と。

 

『出来ない事を数えず、出来た事を数えてみろ。』 と パパは言った。

 

パパは ゆかまるを そうやって育ててくれていた。

 

 

 

 

『あんたの孫が あまりにも出来が悪いから仕方ないやん。

 

 あんたの娘の出来が悪いから その子供も 出来が悪いねん。

 

 そんな育児法やから 出来が悪い人間が作られたんやろ。

  

 褒めたら つけあがるし、出来る事なんか ひとつも無いねん。

 

 教えた事も出来へんねんで。

 

 言うても分からん馬鹿には 拳で教えるしか無いやろ。』 と。

 

男は そう言って パパの話を聞かなかった。

 

バカ男だから パパの言う事が 理解できないんだろう。

 

出来が悪いのは お前だと思いながら 聞いていた。

 

 

 

 

パパは ゆかまるに言った。

 

『子育ては イライラするもんや。

 

 でも それに自分が負ける奴が 暴力に出るんやで。

 

 イライラしても それを見せずに 普通を保って 教えて行くんや。

 

 いつか 分かる日が来るからな。

 

 ゆかちゃんも あんなに聞かん子やったけど

 

 こんなに 頑張れてるやんか!』 って。

 

 

 

 

長男は 友達も多く 保護者からも可愛がられる

 

お調子者で 頑張り屋さんだった。

 

悪く言うのは バカ男だけ。

 

『長男の事がカスに見える お前の目が腐ってるんやろう。』 

 

と 言った ゆかまる。

 

容赦なく 殴られたけど 本当の事を 言ってやっただけだ。

 

 

 

 

家の中で 出来ない事なんか いっぱいある。

 

親元で 甘えて育ってる時間は 短い。

 

いっぱい甘えたらいい。

 

そんな子は 自分の足で 歩き始めた時

 

初めて 親の言ってたことが 分かるんだと思う。

 

ゆかまるは それで良いと思ってる。

 

 

 

 

巣立てば 甘えなど許されない事も 

 

お小言の中に 取り交ぜておけばいい。

 

そうして来たからこそ 長男も長女も

 

自立して 本当に困り果てた時だけしか

 

ゆかまるに 言って来ない。

 

『なんとかする。』 その姿を見て来たからだと言ってた。

 

 

 

 

親が見せるべきは 将来の子供に望む姿。

 

今の事は 見守り 助言し 認めてやる事。

 

子供の大事に想う部分を とことん認めてやる事だろう。

 

 

 

 

5歳で 虐待死した子は 一体何をしたんだろう?

 

殺してしまわなくてはいけないほど 

 

脅威な5歳など 居ないはず。。。

 

 

 

 

「虐待」 「行き過ぎた躾」 は

 

親の心の問題なだけ。

 

子供に いけない所 間違っている所など

 

普通に考えたら 極々 ちっぽけなモノだと思う。

 

 

 

自分の勝手な言い分で 行われて行く虐待。

 

決して 自分の言ってる事を 正しいと思い込むな。

 

○○しなかったから 罰として ご飯抜き、とか

 

馬鹿のする事だ。

 

自分が死ぬまでに出来たら いいのにな~ぐらい 思ってろ。

 

自分が与えた決め事に 自分が追い込まれてるだけなのに

 

弱くて小さな自分を 隠すために

 

暴言や暴力で 威嚇して誤魔化してるようにしか見えない。

 

 

 

 

自分より弱い者に 振りかざすしか出来ない 粗末な心。

 

 

 

 

一番 おかしいのは 虐待をしている 親と言う名の独裁者だろう。