エマヲへの道のり遠き餓鬼忌かな   悠人

 

「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」…という言葉を遺して、大正2年7月24日、芥川龍之介は自死を選択した。その命日は「河童忌」または彼の俳号から「餓鬼忌」と呼ばれる。数日前の三浦春馬くんの自死報道は多くの人を驚かせたが、役に入り込もうとする彼のストイックさが自身を追いつめてしまったのか…と自分には思われてならない。

 

「不安」という言葉は、現代の生活者にとって切り離せないものだろう。政情、経済の不安定さに加え、自然環境の大変動、コロナ禍での自粛生活…数え上げればきりがないほどの不安要素が複雑に絡み合った世界での生活だ。ひとつひとつ真面目にそんなことを考えていてたらきっと狂ってしまうだろう。考えても仕方のないことは考えない方がいい。

 

芥川龍之介で思い出すのは、何年か前に俳句の吟行で田端文士村記念館を訪れたことだ。

その日は、田端の大龍寺に子規の墓所を訪ね、その足で文士村記念館へと戻るコースを辿った。館内の一枚の写真が目に留まった。それは在りし日の芥川氏が自宅の木に登り気持ちよさげに立っているものだった。本当は人好きで世話焼きな人物だったらしい。田端に文士が集まって来たのも彼のそんな性格あってのことだったろう。

 

さて、掲句の話だが、芥川はその最後の作「続西方の人」をこんな言葉で締めくくっている。

『我々はエマオ*の旅人たちのように我々の心を燃え上がらせるクリストを求めずにはいられないのであろう』。このエマオの旅人たちというのは、キリストの死後、エルサレムからエマオという村へ向かう途中復活したキリストと再会していたのだが、それと気付かず同行しつつ、キリストから聖書の解き明かしを受け、心のうちに燃え立つものを感じたという聖書の話だ。芥川は常に聖書を枕元に置いていたというが…。

 

それはさておき、芥川氏にしても自分にしても、きっと多くの人にも言えることなのだろうが、自分のうちに宿る光明―希望であったり人の内面を輝かせるもの―を探し続けて生きているのだと思う。それを見出せるか否か…というよりも、きっとそれを曇らすものが無数にあり過ぎてその道のりを遠くさせているのかもしれない。

 

*エマオ・・・旧仮名遣いで記された著書の原文は「エマヲ」と記されていたので、俳句は「エマヲ」とさせて頂いた。