4月分の更新はゴールデンウィーク中でいいなと思っていたら、ゴールデンウィークは終わってしまっていた。
「さぁ書くぞ!」と意気込んでいた連休初日にパソコンさんの調子が悪くなってしまい、急遽SSDを買い替える必要があったりと散々であった。

今のパソコンも丁度5~6年ほど経っており、調べてみるとSSDの寿命も丁度それくらいらしい。
ここ1年くらいちょこちょこと発生するフリーズに悩まされていたため、薄々感づいてはいたのだが。

ついにOSが立ち上がらない程になってしまい、流石にね…ということで。
そういった経緯から連休初日に秋葉原のヨドバシカメラまで足を伸ばすこととなった。

ツクモとか専門店の方が品揃えもいいのであろうが、逆にそういったところは素人には敷居が高い。
というか本当はツクモとか色々見て回ろうと思ったが、GW初日ということもあってか人が多すぎて、駅近のヨドバシでさっさと買って帰ろうということになった。

SSDはなんか500GBで9,000円いかないくらいの安いやつがあったのでそれを購入。

(今更だが、どうせOSしか入れないだろうしこんなに容量いらない気がする)
ついでにメモリがなんか悪さをしているかもとか思い、16GB×2枚も買ったのだが、メモリは全く問題なかった。
結局単純に増設されて64GBになったわけだが、そこまでメモリがいるような作業があるだろうか。
結局のところ低スぺでもプレイできると評判のLoLをダラダラとやるか、こうしてつらつらとブログを書くことぐらいにしか使わないわけだ。

というかスマートフォンを買い換えたいです。

iPhone7でブログ更新をしていると、うっかり裏に飛んだ時に書いた内容全部飛んだりしてて結構萎えるんですよね。

これやらかしまくってます。

 

ゴールデンウィークの報告は以上です。

薄いねぇ、内容が。

 

 

今年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を皆さんはもちろんリアルタイムで追いかけていることかとは思う。

このブログではお馴染みの三谷幸喜が脚本を手掛けるだけあって、間違いなく人に薦められるレベルに仕上がっている。

(『真田丸』の脚本も彼であったが、これもやはり一般的には評価が高かった。他代表作に『ラヂオの時間』)

もともと小栗旬や菅田将暉に対する評価は大したものではなかったのだが、今作を観てその評価を改めることとなった。

というか大河で自分の好きな人演じていたら大体好きになっちゃうんだよなぁ。(小栗旬⇒北条義時、菅田将暉⇒源義経)

まぁそれにしても、小栗旬に対するイメージって彼の若い頃の作品で止まっていたので、こんな成長してんの!?ってちょっとびっくりしてしまった。

菅田将暉は賛否両論ありそうだが、結構皆の思う義経像と合致する部分もあったんじゃなかろうか。

 

ちなみに私の一番好きな小説というのが、菅田将暉演じる源義経を題材とした、司馬遼太郎の『義経』である。

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先に予防線を張っておくが、私は"歴史小説"はあくまで文学の世界に所属するものであり、"歴史学"の領域へその足へ一歩も踏み入れないものだと自認しているし、常々周囲へ注意喚起を行っている。司馬遼太郎や塩野七生独自の歴史観、いわゆる"司馬史観"や"塩野史観"と言われるようなものが独り歩きを始め、文学の領域から離れて一般社会における歴史認識へ多大な影響を与えてきた(今日や当時の学問的観点からは"正しい"と言えるものではない内容や、誤解を招く内容であったり、小説内の記述の実在性を歴史的資料から根拠付けることが困難な内容が記載されているなど、ファンタジーの域を出ない内容を読者が事実であると"誤認"する事例が少なくなかった)ことから、これらの小説家へ拒絶反応を示す人間も少なくない。

小説に歴史的根拠を求めることに意味はないだろう。

だが、「"歴史"小説」というジャンルを読者が『歴史的事実を基にした小説』と誤認すること、そしてあたかも著者が歴史的裏付けがあるように振る舞う(確かに司馬遼太郎にはこの気がある)ことにより、『小説の内容には事実が含まれる』という認識を持つことは非常に危うい。

確かに"事実と考えれるだけの根拠がある"内容もあるかもしれないが、読者はそれがどこからどこまでがそうであるのか、ということを精確に理解することはできない。

「"歴史"小説」という呼び名が悪いのかもしれないが、読者はこのジャンルへの認識を、「歴史上の人物を題材とした夢小説」というレベルにするべきなのである。

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そして上の予防線を見てもらえれば分かると思うが、この作家の話を出すときは結構神経を使う。

内容はさておき、司馬の描くキャラクターの個性や、文章の気持ちよさがこの作品の持ち味であると思う。

子供っぽくて兄想いだがそれが故に騙されやすいというようなイメージを私は義経に持っているが、そのイメージを私の中に創り出したのはこの小説である。

人間それぞれの思惑、感情が渦巻く中を、なんとなく危なっかしい感じのする義経が駆け抜けていく姿を個性あふれるキャラクター達と共に描いた本作は、上記の内容に留意したうえで読んでいただきたい名作である。

あまり自分でも分かっていないが、私はどうやら司馬遼太郎の文章が好きらしい。

昔からよく読んでいることもあり、慣れということもあるかもしれないが、なんとなく彼の文章は読んでいて胃もたれがしないような感じがある。

おそらく私の舌に合っているのだろう。

世界には様々な作家がいるが、それぞれ特徴があり、人には人の好きなラーメンがあるように、それぞれが好きな文体というものがある。

コテコテの文体が好きなものもいれば、あっさりとした文体が好きなものもいる。

まぁなので、人に小説を薦めるのは難しいなと思いました。(小学生並みの感想)

 

話が逸れてしまったが、『鎌倉殿の13人』の話に戻る。

物語の中で北条時政が義経のことを「平家を倒すために生まれてきたようだ」と評するシーンがある。

ドラマの中では恋愛もするし、兄弟関係に悩む人間らしさを持った青年として描かれており、そんな青年が短い生涯を平家打倒に捧げた英雄譚と悲劇が混在している。

この二つの要素を併せ持つからこそ、源義経は今なお愛される人物として人々の心にに名を残しているように思う。

 

皆さんは既にご存じだと思われるが、実はローマにも彼に近い人物がいた。(出ました)

一般にアウレリアヌス帝と呼ばれるルキウス・ドミティウス・アウレリアヌスである。

 

そういえばローマ人の名前って平安時代の日本人にちょっと似てますよね。

ローマ人の場合だと、個人名(ルキウス)・氏族名(ドミティウス)・家名(アウレリアヌス)となっている。

最初は個人名と氏族名だけだったらしいけども、同じ一族で規模が大きくなってくると同じやつが多すぎて不便になり、さらに区別のために家名が追加されたような経緯があるらしく、この辺の経緯も少し似ている。

日本人の場合だと、苗字(徳川)・氏(源)・実名(家康)といった具合になる。

※えらい人は朝廷内での地位を表す【姓】もあったりして、それがついている場合もある。というか日本の氏姓制度のスタートは文字通り氏+性だったわけだが…。

これも当初は氏族名+姓(朝廷での格付け)+実名という形であったが、氏族の内で拠点とする地域がばらけている場合などに区別として付けたのが苗字のルーツとされているらしいす。

 

そしてこのアウレリアヌス帝だが、彼を紹介する際には"世界の修復者"という一文が添えられる。

ここでいう世界というのは現代でいうところの世界というわけではなく、あくまでローマ世界のことである。

(当時の世界なんて中国を除いたらローマの周辺以外にないようなものでしょ(暴論))

彼が修復したローマは、もう帝政始まって300年近い年月が経とうとしていた。(紀元260年くらいですかね)

その頃なんやかんやあって(エデッサの戦い)、ローマ皇帝ヴァレリアヌスはササン朝ペルシアの捕虜となっていた。

現代日本でいうと、岸田文雄が北朝鮮に拉致されたみたいな感じだろうか。

そうなったら皇帝を誰かが変わらなければならないわけだが、一応は息子のガリアヌスが継いだ。

流石に岸田文雄が北朝鮮に拉致されたら国内政治は混乱するわけだが、それと同じことがローマでも起きていたと思って頂ければいい。

そもそも先帝が戦いで負けたササン朝ペルシアもまだまだ元気だし、相変わらずゲルマン人は北から南下してくるし、国内経済はめちゃくちゃであったり、疫病が流行りまくったりとローマ帝国は歴代屈指のクソハードモードになっていた。(現代日本か?)

そんな感じで国内はめちゃくちゃなのだが、それをいいことに現在のフランスあたり、カエサルが『ガリア戦記』で書いたガリア地方から現在のスペインあたりまでの地域でガリア帝国が、そしてエジプトからシリアにかけての地域ではパルミラ王国がそれぞれ勝手に独立を宣言した挙句、先帝の息子のガリアヌスはさっそく暗殺された。(この辺は現代日本ではない)

まぁそんなこんなでめでたくローマは上記の三勢力に分裂した。

流石にこうなったらローマも終わりかな…と誰もが思うし、少なくとも一つにまとまることはもう無いだろうと考える。

しかし、ローマの危機の中で現れたその男こそがルキウス・ドミティウス・アウレリアヌスであった。

彼の出自はあまりパッとしないのだが、やはり才能があったのか国内でメキメキと頭角を現していた。

皇帝が北朝鮮に拉致されたり、後を継いだ人間が暗殺されたりとめちゃくちゃな状況で、一応形だけは残っていた元老院は彼を皇帝へと推挙する。

皇帝へと就任した彼は属州ダキアの防衛を放棄したり、ローマに"アウレリアヌスの城壁"と呼ばれる城壁を建造したり、国内経済の問題に対処したりと体制を整えると、まずはパルミラ王国を殴りに行った。

兵力だけで言えばかなり劣勢ではあったものの、流石に強すぎてパルミラ王国の領域をあっという間に統治下に戻してしまった。

パルミラ王国が片付いたため、そのまま反転してガリア帝国の処理に向かったが、ガリア帝国側もアウレリアヌス帝のあまりの強さに顧問の橋本弁護士の勧めもあって戦わずに降伏した。

こうして三国時代を一瞬で終わらせたアウレリアヌス帝は"世界の修復者"と称されるようになる。

ちょっと詳細を省きすぎてあんまりすごくなさそうだが、すごいんです。

だが、このすんごい有能なアウレリアヌス帝も秘書官に暗殺されてしまう。(諸説あるが、なんか色々な不正をやっていたらしく、それが公明正大で評判のアウレリアヌス帝の耳に入ったらやばいな~ということで暗殺したんちゃうかねっていうのが一般的ですかね)

この間僅か在位5年である。

ローマの分裂を防ぎ、混乱を鎮めるために生まれ来たような人物ではないだろうか。(まぁ、暗殺された後はまた混乱期に逆戻りなんですけども…)

ただ、彼には義経程の悲劇性が付加されていないせいか、功績の割に後世であまり作品になったりしていない気がする。

義経は本来力を合わせていくべき兄弟の仲といったところに悲劇があり、それがドラマ性を生み出しているのだろうか。(平家の人たちはなんだかんだで結構兄弟でも仲良かったので、そのコントラストっていうのも悲劇性を増しているかもしれない)

アウレリアヌス帝はその辺にドラマ性が無いせいか(私が深く知らないだけでもあるが)、日本でもその名前も話も聞くことは殆どない。

彼を題材にした映画かドラマで面白いものがあれば誰か教えてください。

 

"ザンギ"という名前の"唐揚げ"が北海道には存在する。

これらは非常に似ている。

似ているというかほぼ同じである。

しかし、北海道民の中にはこれを"唐揚げ"と呼ぶことを認めない者もいる。

若干ズレがあるが、広島県民の一部が"広島風お好み焼き"という呼称に怒るのに近いだろう。

 

実際"ザンギ"は"唐揚げ"ではないのだろうか。

真実を追い求めてネットサーフィンを始めると、下記のページにたどり着いた。(3秒)

農林水産省のホームページなので、おそらく何かしら根拠のある情報だろう。

どれどれ…。

『北海道では「鶏の唐揚げのことを「ザンギ」と呼ぶ』

やっぱり唐揚げじゃないか(呆れ)

 

冗談はさておき、一般的には下味がしっかり付いているものがザンギで、下味を付けなくてもよいものが唐揚げにカテゴライズされるようだ。

『食材に小麦粉や片栗粉などを薄くまぶして油で揚げたもの』

 

厳密にいえば唐揚げというカテゴリーの中にザンギがあるイメージだろうか。

しかし、現代の唐揚げというものは社会通念上下味が付いているものであるという前提を踏まえると、我々が"唐揚げ"と呼んでいるものはもはや"ザンギ"であるという事実が浮かび上がってくる。

我々は同じものを違う名前で呼び合い、あろうことか『同じものである、同じでものではない』といった論争を繰り広げているのだ。

各家庭の食卓では目の前の"唐揚げ"を"ザンギ"であるという主張が行われている一方で、"ザンギ"を"唐揚げ"であるという主張も存在し、家庭内の安全保障問題に発展している。
鶏肉に小麦後や片栗粉を薄くまぶして油で揚げたものにあまり興味がない人からすれば、「好きに呼べばいいじゃん」で終わるのだが…。

 

適者生存。

生存競争において、もっとも環境に適したものが生き残るという考えがある。

そういった意味でザンギは現代社会に適合したと言える。

おかずにはもちろんのこと、時にはおつまみになったり、弁当の定番として不動の地位を築いている。

これらに求められる共通項は、"味がしっかりとついていること"である。

どうして現代ではこのような濃い味付けが求められるようになったのかは分からないが、人々がそれを求めたことで唐揚げがザンギ化したのは当然の結果であっただろう。

唐揚げの名前まで置き換わらなかったのは、これらが殆ど同じものであったからだろう。(別種というよりも唐揚げのバリエーションのような存在)

 

かつて国家とは王であり、王は国家であった。

フランス革命以降、ナショナリズムが台頭すると国家とは民族であるという考えが強まり、一民族が一国家を目指すような動きが世界中で広まっていった。

民族とは何なのだろうか。

人種や出身地が必ずそれを定義するとは限らないし、言語や信仰にしても同じことである。

("親はロシア人で北海道生まれコスタリカ育ち、ユダヤ教を信仰する人は何人…?"といったもの)

この民族という曖昧な概念が、世界中のあらゆる紛争、あらゆる問題を引き起こしている。

 

世界中の情報がインターネットで共有され、物理的な距離もあらゆる交通機関の発展で昔とは比べ物にならないほどに縮んでいる。

特定の国で生まれたカルチャーが世界規模で流行することも珍しくなく、このままいけばいつか地球全体が一つの国家となる日も来るのではないかとさえ思う。

我々が民族だと思っているものは"ザンギ"にしか過ぎないものになっていくのではないだろうか。

逆説的に言えば、我々は"唐揚げ"と"ザンギ"の違いで国家を形成でき、場合によっては殺し合いさえするのではないだろうか。

 

ルワンダという国では、この民族という概念が想像を絶する悲劇を生みだした。

(フツ族とフチ族による虐殺。現在ではこの両者は同一の民族であるという見解が主流である。ドイツやベルギーの政策で分断され、なおかつそれが最悪の悲劇を招いた。)

胸が痛くなる内容のため、各自調べたりしてみて欲しい。("ルワンダ虐殺"などで検索すれば出てくる)

一応簡単な紹介を貼っておく。

 

 

 

このルワンダ虐殺でさえわずか30年前の出来事である。

今我々が注目しているウクライナ・ロシア間の問題も今に始まったことではないし、世界には常に紛争が溢れている。

我々はきっとそれを本気で無くそうと思ってこなかった。

パレスチナで人が死んでも、シリアで人が死んでも、ミャンマーで人が死んでも、スーダンで人が死んでいたとしても。

そのツケを今我々は支払っている。

 

東スラヴ人による国家、もしくはそれらが一体となった勢力圏というのがプーチンの目指すゴールなのだろう。

我々は忘れてはならない。

民族という曖昧な定義で人々は殺し合う。

遠い未来、民族という概念が薄まってきた時、"唐揚げ"か"ザンギ"かという問題で殺しあわないとも言い切れない。

どうしたらいい?

戦争が早期に終結し、ロシア人、ウクライナ人の人種を問わず、犠牲者が一人でも少なくなることを願う。

 

ロシアとウクライナの紛争は世界のあらゆる問題と等しく、歴史や文化といったあらゆる価値観が関わっており、私のようにこれらを理解していない人間があれこれ言っても仕方がないし、非常にセンシティブな内容でもあるので、あまりこういった部分には言及したくない。

先に断っておくが、私は戦争は可能な限り回避すべき最後の外交カードであると考えているし、それと同時に絶対に切ってはいけないカードであるとも思っている。

引き金を引き、国際社会に混乱をもたらしたのは明確にロシアであり、その点において私はロシア政府を非難する。

 

2/24

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「チョコモナカジャンボ」(森永製菓㈱)は皆さんご存知だろうか。

ご存知かと思いますので、もう紹介は省きます。いいですねッ!!(ジョルノ)

 

実はこの「チョコモナカジャンボ」は2020年から冬になると、冬季限定と称してチョコを増量した製品を販売している。

今季もありがたくチョコの増えたジャンボを味わっていたのだが、最近スーパーにいっても見かけなくなってしまった。

もしかするとコンビニであれば置いているのかもしれないが、冬が終わってしまったという可能性もある。

冬が終わったからチョコが減るのか、チョコが減ったから冬が終わるのか。

21世紀のこのジレンマの答えを我々はまだ見つけていない。

というか名前があまりにも直球すぎないだろうか。

"チョコ"と"モナカ"と"ジャンボ"だ。まさしく「チョコモナカジャンボ」を構成する最低限の要素だけで成り立っていると今更ながら感動する。

無駄を省くというのは機能美を磨くということに他ならない。

何事も何かを突き詰めた物事というものには美しさが宿る。

兵器や思想、時にはチョコモナカジャンボにさえも。

 

冷戦期を我々は"冬"と表現することもある。

一時的な緊張の緩和もあったものの、ソ連邦の崩壊する直前まで半世紀近くに渡って続いた。

その構造は今もなお形を変えて継承され、その残滓として国際情勢の一つの対立軸となっている。

 

共産主義という亡霊への西ヨーロッパの警戒、憎悪はもうすでに100年以上の昔からのことなのである。

ソ連邦が崩壊し、新生ロシアに生まれ変わったとしても、その背後にはうっすらとした恐怖があっただろう。

それが故に西ヨーロッパの諸国は"ロシアのいない"ヨーロッパを作り出そうとしてきたようにも見える。

 

黄禍論、共産主義、ナチス、ソヴィエト連邦…。

これまで様々な脅威(とされたもの)が結束を生み出してきた。

しかし、古代ギリシアの諸ポリスや、ローマ内戦のように、外部の敵を打倒した組織は内側で争いを始める。

平和になれば内側で争いが必ず起きるようになっているが故に、組織は常に敵を作らなければならない。

新生ロシアは結局仮想敵のままであった。

強力な経済圏も創り出せず、"思想"という神輿もない盟主には誰も付いていかない。

自由主義の蜜を吸ったかつての構成国に刃を向けられる現実に、亡霊は何を思うだろうか。

 

力による支配を認めないというのは我々の道徳観で言えば当然である。

しかし、主導権を握るのは常に"力"を持つ側である。

それが武力であれ経済力であれ。

戦争は絶対に避けなければならないが、暴力を振るうのも、経済力による制裁も根本は変わらず、"力"の発揮に他ならない。

平和の陰には争いが満ちており、ドンバス戦争以外にも不幸な人々を生む紛争は今も起きている。

結束には敵が必要となり、敵が消えれば内側で争いが起きる。

人類がこのジレンマを超越できる日は来るのだろうか。

 

 

アイスの話のついでに最近のアイスのレビューをする。

ザッハトルテが普通に食いたくなる。

あのチョコのジャリ感というか、独特の感触というのは中々アイスだと再現するのは難しそうではある。

しかし、このアイスは普通に美味い。というかこの組み合わせで不味くなることはないだろう。

意外とアプリコットソースの甘酸っぱさというのはザッハトルテ以外のスイーツでメジャーなものが無いような気がする。

レギュラーにして欲しいが、おそらく冬限定になるだろう。

 

 

これはこれから食べます。

きっと美味いに違いない。

でもとても甘そうだし、甘いという感想になる気がする。

マロン系のアイスは難しい。