もう去年の12月の話なのだが、ある匿名掲示板での投稿がTwitterに投稿されていて、思わず考えることがあった。

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262 名無しさん@実況は禁止ですよ (中止 Srd9-Zvmm [126.194.215.92])[sage] 2021/12/25(土) 01:41:54.17 ID:5V6x+33zrXMAS

チキン冷めちゃった

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これはなんてことのない、淡々と状況を報告する文章でしかない。

しかし、この文章が我々に与える感情は、きっとこの文字列以上のものではないだろうか?

(念のため背景を説明すると、これはクリスマスイブにVtuberの配信を心待ちにしていたファンが、配信がいつまでたっても始まらなかった際に投稿したと言われているものである。)

 

イブの夜、予約していたチキンを受け取り、彼は少し足早に自宅へと向かったのだろう。

『よかった、まだ始まってなかったんだ』

そんな気持ちで、ささやかな祝福の支度をしていたに違いない。

準備が出来て、いつものように配信が始まるのを待っていたのだろう。

しかし、彼の決して望み過ぎとは言えない幸せはやってこなかったのだ。

冷めてしまったチキンを目の前にして、彼はこう呟く力しか残っていなかった。

そんな感情や景色が匂いたってはこないだろうか。

和歌の世界においても、"チキン冷めちゃった"に通ずるような、"来ない待ち人を待つ"といった切ない恋の歌は多い。

[例:赤染衛門『後拾遺和歌集』やすらはで 寝なましものを 小夜ふけて 傾くまでの 月を見しかな]

※現代語訳:ぐずぐず起きていないで寝ていればよかった、あなたを待っている間に月を沈んで傾く明け方まで見てしまいました。

 

胸を刺す悲しみ、手つかずのチキンやケーキが視界に映り込む虚無感。

受け取り方は人それぞれだが、たったこれだけの文章で我々はそれ以上の感情や物語を想像できる。

文学や詩の力はまさにこれだろう。

 

これはあらゆる創作物に共通することであるとは思うが、作品は作者が創り出すが、完成させるのは読む人の感性だろう。

ホメロスの『イーリアス』が今もなお人々に語り継がれ、ダンテの『神曲』やゲーテの『魔王』に荘厳さや畏怖の念を覚えるのは、受け手の感性を刺激し、それが強い感情を生みだすからである。

つまり、受け手が自身の経験や知識、想像力を活用し、心情や風景に当てはめて共感する作業によって、詩は初めて受け手と作者を繋ぐ作品となる。

時代や社会、地域といった違いに加え、当然ながら各個人でも感性は異なるため、それがどのような作品になるかは千差万別だ。

逆に言えば普遍的な名作というものは、どのような時代や社会でも、それとなく当てはめたり思い浮かべたりすることが出来るものなのかもしれない。

(先程の赤染衛門の和歌も、文化的な部分は当時と現代では全く違うが、分かるところありますよね・・・!?)

「愛している」とかそんな言葉を使うよりも、赤染衛門の歌や"チキン冷めちゃった"は、もっと深く強いメッセージを人に与える。

 

2000年代には「〇〇は俺の嫁」というオタク文化が存在した。(今も若干あるようだが)

好きなキャラクターを自身の伴侶であると宣言するという、あまりに直接的ではあるものの、ある意味究極の愛の表現であった。

これも普通に考えたら気持ち悪いものではあるのだが、「チキン冷めちゃった」と比べると少しサッパリした、ネタに寄ったような気持ち悪さではないだろうか。

「〇〇は俺の嫁」という文化には、基本的には非実在存在のキャラクターが対象となっており、2次元と3次元の壁が立ち塞がる、絶対に手の届かない恋であるが故に、その文面にリアリティは全くない。

その開き直りともいえる儚さが、「〇〇は俺の嫁」文化に陰湿なイメージを与えなかったのかもしれない。

(ちなみに私は当時もしっかりと気持ち悪いオタクであったので、"俺の嫁"が存在した。)

 

"俺の嫁"はあくまで自己の中で完結し、救いは自身の中に見出す。

2000年代のオタクがPC画面に好きなキャラの壁紙にして、ケーキやチキンを広げている写真を見たことはないだろうか。

彼らは"嫁"がそこに在ると信じて(というよりも思い込んで、しかも決してそれが現実の存在となることがないということを理解した上で)、チキンを温かいうちに食べていたのだ。

 

バーチャルユーチューバーがどういうものなのかは私は詳しく語れない。

それが良いとか悪いとかそういう話をするつもりもないが、大きな変化であったことは違いない。

これまで決して存在しないと分かっていた存在が、もしゲームをしたり、なんてことない世間話をする姿を画面越しでも見れるようになったらどうだろうか。

その存在が確実に一歩、実在性を増してしまった。

なんとなくガチ恋勢みたいな人に2000年代のオタクが多いのはこのあたりが関係あるんじゃないだろうか。

(私の体感です。「なんかそういうデータあるんですか?」と言われると、特にないです。嘘だったらすいません。)

 

二次元側から三次元側に足を踏み入れたと解釈する人間(2000年代のオタク)と、三次元側から二次元側に足を踏み入れたと考える人間(ミレニアム世代)でもしかしたらバーチャルユーチューバーに対する深層的なところで理解が違う可能性があるのではないかと思ったが、何もデータが無いし、だからなんだよっていう話なのでここでお開きです。

 

"チキン冷めちゃった"に話を戻す。

きっとこの言葉も時の流れと共に、皆から忘れられていくだろう。

これほど我々の心を揺さぶる文章であるのに、それが後世に語り継がれないのは何ともいたたまれない。

きっとこれまでの人々の暮らしの中で、こういったものは多数あったのだと思う。

かつての勅撰和歌集に撰入されている詩の殆どが、貴族や僧侶といった特定の知識人階級のみであったが、それが俳句や川柳へと派生するにつれて、一般人も楽しむものとなった。

その一般人の中にも、作品のレベルだけで言えば後世に語り継がれるべきレベルのものもあっただろう。

しかし、その多くが日の目を見ずに消えていったのではないかと私は思う。

きっと、世に知らしめたいと強く願っても達せられなかったものは多くあったはずだ。

幸いにして、現代ではインターネットの普及によって、多くの才能が報われる環境となっている。

だが、この5ちゃんねるに投稿された詠み人知らずの"チキン冷めちゃった"は後世に残るだろうか。

 

様々な文化、芸術が産まれては消えていく。

時代とともにその速度は増して、我々は昨日称えたものを今日には忘れてはいないだろうか。

『あれそういえばなんだっけ』と、ふと思った時に情報は残っているだろうか。

 

古代ギリシャには"暗黒時代"と呼ばれる時代がある。

これは治世が良くなかったとか、天災が降りかかった時代ということではない。

後世に筆記による資料が残らなかったが故に、何があったのかも何も分からない、ぽっかりと歴史上に漆黒の孔を開けているという意味での"暗黒"である。

 

私は私の良いと思うものは後世に残したい。

1000年後、誰かが『あれなんだっけ』と思った時に、"チキン冷めちゃった"が理解できるような世界であってほしい。

あらゆる文化の守り手も同じ思いだろう。

私の生きているこの時代、このインターネットを暗黒時代にはしたくない。

一体何ができるのだろうか。

考えているだけで何も出来ない自分と年末からずっと向き合っている。

今年最後の更新になります。

今年も色々なことがありましたが、正直あんまり覚えていないですね。

色々なイベントがありすぎて、逆にすべての印象が薄くなってしまったのかもしれない。(適当)

年末だから余りある時間を使って色々ブログにしたいという気持ちもあったのだが、いざ休みを得ると書く気力が湧いてこないのは不思議なものであるなぁ。

ただ月に1回くらいは更新するというのを心がけているので、仕方なく書く。

定期的に書くというのが大事で、多分人生におけるメトロノーム的なものになってくれているはずだ。

というわけで今回は2021年に「なんだかなぁ」と思ったものをランキングにする。

皆さんも頭を空っぽにして、これを参考に2021年を振り返っていただけたらと思います。

 

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3位 無添くら寿司

『日本以外の回転寿司ではスシ□カバーなしでは営業できません!』

 

↓私のTwitterのタイムラインにこんなツイートがたまに出てくる

確かに無添くら寿司のような巨大チェーンでは、衛生管理を重視する。(というよりも重視せざるを得ない)

感染症予防対策への関心が高まることとなった昨今では、このスシ□カバーは非常に強力な武器に見える。

そうなんだけども・・・。

我々は回転寿司をスシ□カバーの有無で選ぶだろうか。

確かに、高齢者や妊婦、幼い子供の居る家庭が『久々に回転寿司に行きたいな~』と思った時、このスシ□カバーが決め手になる可能性はある。

「外食はちょっと怖いけれど、無添くら寿司ならスシ□カバーがあるからいいよね」というように。

しかし、そういった家庭はそもそも外食自体を避ける、もしくは状況が落ち着くのを待つといった選択を採るのではないかと私は思う。

また、現状他の有名寿司チェーン店でクラスターや、スシ□カバーがあれば回避できた感染事例というのがおそらく無い。

そのためか我々にはスシ□カバーの重要性がいまいち理解できない。

「世界ではスシ□カバーが必須です!」と言われても、日本企業の衛生管理や社会への信頼が前提にあるので、「はぁ・・・そうですか」という感想しか出てこないのだ。(そこまでしなくても十分気を付けてるし大丈夫でしょ、というような気持ち。というかこのスシカバー自体が清潔感ない気がする。これ営業中に洗ってるのか。)

 

あとはもうこの間に入っている"□"が気になって仕方がないんですよね。

これは俺が変な風に書いているわけではなくて、公式で"スシ□カバー"と表記しているのだ。

おそらく商標の関係だと思うのだが、なんなんだろう。本当は間に記号が入っているけど使えなくて文字化けしているのか・・・?

 

これはこの後の1位、2位とも同じことを言うのだが、シンプルに味や素材、とにかく料理で勝負して欲しい。

衛生面のアピールすることも戦略であることに理解はするが、私は多分こういうものが認められない人間なのだと思う。

後述するが、これはもう信仰の問題である。

 

もっというと"無添くら寿司"の『無添』についても色々言いたいことはあるのだが、既に部屋が寒すぎて指がやばいので回を改める。

 

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2位 サントリー伊右衛門

『淹れたての緑・味・香りへ。』

 

 

※先に言っておきますが、伊右衛門はしっかりと甘みもあり、尚且つスッキリしているため私はとても好きですし、芦田愛菜が好きです。

 

私が幼かった頃、"お~いお茶"を見て思ったことがある。

「ペットボトルのお茶って緑茶なのに緑じゃないやん!」

いつしかペットボトル飲料のお茶はこういうものであるという既成概念を受け入れ、疑問に思うことは無くなっていた。

人が大人になるということは、つまりこういうことなのかな、なんて思ったりもする。

伊右衛門の開発者は、そんなつまらない"大人"ではなく、子供のような純粋さを持った人々だったのだろう。

 

しかし、この伊右衛門の挑戦は我々に新しい疑問を提起した。
『緑茶は"緑"でなければいけないのか』

褐色のお茶は不味いだろうか。我々はこれまでペットボトルに詰められた褐色のお茶を、"緑茶"として受け入れてきた。
その事実を伊右衛門が"緑"になったからといってなかったことにはできないだろう。

確かに見た目は大事である。

だが、我々が茶褐色の"お〜いお茶"を緑茶と認めているのは、その味と香りが緑茶であるからだ。


ペットボトルのお茶が茶褐色になるのはおそらく酸化だと思われるし、であるならば少なくとも味にはなんか関係があるだろう。(なんか淹れたお茶を放っておくと少し変色して渋くなるので、ペットボトル飲料の緑茶もそんな感じなんかな)

であるならば、伊右衛門は味にも自信があるはずなのだ。

"味"で勝負するのがお茶の本質なのではないだろうか。

なので、サントリーには『淹れたての緑・味・香りへ。』の順番を『淹れたての味・香り・緑へ。』に並べ変えるべきだろう。

 

日本コカ・コーラはこれに対して、『綾鷹は、おいしさで選ばれている』とカウンターを繰り出している。

なんというか、庶民が日常的に飲むペットボトル飲料においては、値段と味以外に選ぶ要素は殆ど無いのではないだろうか。

一周回って当たり前のこと言っていてなんだか笑ってしまう。

もちろん紫色の緑茶なんて飲みたくはないし、お茶の色が重視される場面も必ずあるだろう。(国際的な会合等)

だが、緑茶という日本人に馴染みが深く、決して特別ではない存在の緑茶の選定基準に"色"を求める場面は少ないのではないだろうか。

 

色以外にも昨今では企業の社会的貢献性やコンプライアンスといったところを重視する向きもある。

我々は今、情報を食べる時代をまさに生きている。

しかし、色や企業価値にまで目を向けて緑茶を選べるほど私は高尚な人間ではない。(それがチベットで作られているとかなら話は別だが)

 

『お茶とは何か。そして何を重視すべきか』

これはもはや宗教だ。

サントリーは"色"に対する信仰が篤かったが故に、私の信仰する"味"を重視する教義とぶつかってしまっているということなのだ。

これは『お茶とは何か。(何を重視すべきか)』という答えのない戦いだ。

私はただ、自身の信じる神に従っているに過ぎない。

 

もう来年からは自分でお茶を淹れます。

 

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1位 モスバーガー

『食べやすさで選べば、モスチキン♪』

 

シンプルにわけがわからない。

飲食店としての矜持はないのか。

"食べやすさ"だったら骨なしケンタッキーでいいんだよ。

俺をこんなことで疲れさせないでくれ。


衣はサクサクで美味いと思います。

色々部位があったらなぁ。

というかケンタッキーがこの衣で新商品を出せば解決なんですよね。

 

以上、皆様も良いお年を

世界のパワーゲームは冷戦が終わっても未だに続いている。

プーチンに言わせれば、ロシアの安全保障上のレッドラインはウクライナのNATOへの加盟であるらしいが、ウクライナの国防相はこれに対し「越えてはならない一線はここウクライナにあり、文明社会は躊躇なく対応する」と表明している。

(おそらくロシアの武力侵攻を牽制するもの)

この話が最終的にどこに落ち着くのかは結構見ものだと思う。


このレッドラインというものは国家間や企業間といった集団だけでなく、個人にも存在するだろう。(法律上のものは別として)

トラウマやコンプレックス、或いはプライドがその一線を構築することが主だが、正直その線が何によって引かれているのか、そして越えられた時にどのような反応を示すのかは人それぞれだ。

特定の言動で越える時もあれば、じわじわと徐々に越えている場合もある。


私は普段これを触れてはならない領域という意味で"聖域"と呼んでいる。

人間同士のトラブルを回避していきたいのであれば、この"聖域"に近づかないようにすることが重要であるだろう。

たが、その広さや種類は人それぞれであり、厄介なことに"聖域"は一つとは限らない。

しかも他人が自身のその領域を荒らしにくることも警戒しなければならない。

その領域での作法が分かっていれば、相手に不快感を与えずに共感ができるであろうが、作法を間違えた時、巡礼者から侵入者へと扱いが変わる。

そこへは誰でも入れるのだが、その作法を間違えないことが難しい。

しかし、"聖域"はその個人を形成する"核"に近い部分であり、その個人の本質的なものといえる。

その個人が大事にしているもの、重視しているものが"聖域"となりやすく、それが故に他者からの攻撃に敏感になり易い。

例えば、熱心な宗教家が他宗教の信者から、「お前の信じている教えは悪魔の教えだ!」などと言われようものなら、ストリートファイトになりかねない。

重要視しているからこそ聖域化するのであり、自分にとってどうでもよいことは聖域にはならない。

大人になるにつれ、そのことへの理解が固まっていくと、相互間のやりとりは当たり障りの無いもの、つまり"聖域"を侵害することが滅多に無い話題を選んで行われる。

その人の核である"聖域"への接近を避けることが、相互理解が深められない要因の一部になっているのではないだろうか。

驚いたことに私には大学生以降、社会人になってから新しい友人は殆ど出来ていない。

(これは殆ど私自身の人間性やコミュニケーション能力に起因するのだが…)

これらは結局私の実体験に基くもので、他の人へのヒアリングも行っていないし、精神医学や社会学の裏付けがあるものでも無い。

だが、コンプレックスを持つ者にとって、その部分を攻撃されたくないという心理はあるであろうし、プライドの高い料理人が自身の料理にケチをつけられることに耐えられないこともあるだろう。

また、何かを肯定することで、何かを否定することになる場合にも気をつけたい。(中国と台湾のような場合)


戦いを避け、友好を築きたいのであれば、互いの"聖域"を意識して立ち回る必要はあるだろう。