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Elvis John kobayashiのブログ

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私の66年間では、人生で初めての大きな試練は高校1年から2年の時だ。


私は小学6年間、中学3年間はクラスでトップクラスの成績であった。私の勉強法は「知識を楽しく理解しながら学ぶ」と言うスタイルのもので、いわゆる「がり勉タイプ」ではなく、中学対抗大会に出たりして長距離走も速く、また人前で歌ったりのパフォーマンスが大好きな学生だった。


入学したK高校は、熊本県下一の受験校で、当時も東大に数十人も通る高校だった。入学式の翌日の試験で、どう間違ったのか、私は一学年600人中32番、クラスでも2番(ちなみに1番と3番は、その3年後東大に合格)と言う好成績を取り、私は一躍注目の的になった。


その結果に最も驚いたのは、私と両親たちである。勉強のやり方次第では「もしかしたら東大に入れるのでは」と脳裏に浮かんだ私たちを、誰も咎めることは出来ないだろう。


父なりにいろいろ調べたのだろう。親戚の中でも成績優秀だった叔父(中学教諭)が旧制中学時は、休憩時間にも通学時にも、寸暇を惜しんで教科書を「一言一句」暗記した、と言うことを聞き、私も素直に「台本を覚えるように」寸暇を惜しんで「一言一句」暗記をやってみた。


しかし何回読んでも暗記出来ずに、なかなか先に進めなかった。次から次に進む授業に追いつかぬまま、6月の中間テストに突入し、見るも無惨な結果(全体で350番)に落ちてしまった。


ここで自分のやり方を見直せばよかったのだが、その時は「やっていることをもっと徹底する」と結論付けてしまい、夏休みの補講にも聞き漏らすまいと一番前で「一言一句」ノートした。しかし暗記が追い付かず、さらに中途半端な理解のまま、全く消化不良の状態で夏休みを終了。直後の実力テストでは400番代に落ち、どうしたらよいのか分からず自信喪失し、全く勉強が手につかなくなってしまった。そして1年の最終テストでは560番(後ろから数えて32番?)に急降下してしまった。明るかったキャラも影を潜め、劣等生のレッテルを貼られ、冷たい視線を感じる高校が嫌だった。


父はそんな私に慰めか「大学は地元のS大で良い」と言ってくれたのだろうが、私は親にも見放されてしまったと感じた。母はD女子高の先生に英語を習わせたりしたが、逆にそれが苦になり、家にふさぎ込んでしまった。今でいう「ニート」に近い状態だったのだろう。一度だけ母に心情を語ったことがあったが、何と私以上に落ち込んでしまい、「相談する相手を間違った」と苦笑したことがある。


しかし高2でクラス替えがあり、クラスメイトが成績の良し悪しに関係なく接してくれる雰囲気に救われた。私の成績は相変わらず500番代の超低空飛行だったが、高校の催しがあればクラスではまず最初に私の名前が挙がり、クラス一のムードメーカーに復活した。


2学期に入り、運動会では応援団長に選ばれ、連日連夜の練習、当日も午前2時に集合、最後の練習に終始し、楽しい団体生活を味わった。そして1か月後、東京修学旅行ではクラスメイトとは徹夜でバカ話に明け暮れ、バスの中ではマイクを使って英語・仏語・伊語での「洋楽ワンマンショー」、観光地はどこだったか覚えていない。1週間の旅行があっという間に過ぎてしまった。あまりの楽しさに、帰りの夜行列車の中で「このまま幸せの中で、脱線転覆して死んでも構わない」とさえ思った。


しかし、その時「神が降りた」!…これまでの高校入学からの1年半はきっぱり忘れて一からやり直そう。そして「今日からは、昔のように楽しく理解しながら学ぼう、誰にも負けない努力をしよう!」との思いが自然に湧いてきた。


それからまず、世界史・有機化学・数学微積分、日本史、生物遺伝、地学と一科目ごとに成績が上がって行った。高2の2学期だったので、高校教材は7~8割を終わっていたので、時すでに遅しの感はあったが、それからの授業には俄然力が入り、めきめきと実力を付けて行った。結果はすぐには出ないため、両親の不安は続いたが、私の心は快晴そのものだった。(その後一浪して、地元の国立K大学法科に合格)


尊敬する経営者H氏のブログで「人生で2回、神が降りた」と言う言葉に共感。私の「神が降りた」のは最初がここだ!目に見えない何かが私を動かしてくれたことに感謝する。


その後の私の節目節目で、苦悩しても「考え方の切り替えしで人生を変えることが出来る」と乗り越えて来れたのも、この貴重な体験でのおかげである。神様(大いなるもの)に感謝し、少しでも社会に貢献しなければならない。