この原稿を書いている3月下旬、いよいよオープンまで1ヶ月を切り、社屋建設も佳境に入ってまいりました。覚悟はしていましたが、目まぐるしい日々に追われる毎日です。
人生をさかのぼって見るといろんな節目がありますが、私や家族ばかりでなく、社員とその家族にとってはもちろん、取引のあるダスキン本社やその他取引先関係者や、お客様やケアマネジャー様まで含めると、恐らく影響は最大のもので「人生最大の節目」になるものと思われる。
私の節目・分岐点は、学生時代は環境の変化「2回の引っ越し」「小学校転校」「中学寄留入学」「高校」「予備校」「大学」によるもので、そのたびに乗り越えては「いっぱしの大人」になっていると思っていた。特に大学時代には数多くのアルバイトをこなし、接客やスタッフや上司とも積極的に接し、ある時はプロのジャズバンドの世界に入り込んでボーカル(歌手)をしていたので、そんじょそこらの社会人以上の経験は積んだつもりだった。
当時の就職戦線は「第1次石油ショック」が終わった時ではあったが、高度成長時代末期で、まだ就職戦線は「売り手市場」であり、留年生の私でも「一部上場会社」に“3社”も合格していたので、就職して働くことを甘く考えていたようです。
さて、そのY社、今では考えられない「超体育会系」の機械器具関係の商社(当時は東京や関西に行った友人たちが“総合商社”に就職していたので、“商社”にあこがれていた)だった。
大学最後の冬休み、「会社研修」を兼ね博多駅近くのY社福岡支店に1週間アルバイトをして驚いた。機械器具工具の商社倉庫には数10kgの商品が山積みされ、それを上から投げるのを受けとめなければ、容赦なしの罵声を浴び、ホウキの枝で尻を叩かれると言う、今だったら「労働問題」で訴えられそうな、「しごき」が日常的な「本当にこれで一部上場?」と言う会社だった。
恐らく私だけだったら、第2志望の、東京中心に駅前に店舗展開しているデパート“M社”に就職しただろうが、「大阪で待っている彼女を裏切る訳にはいかない!」とやっとの思いで留まった。そういう意味では彼女との出会いが無ければ私の人生は大きく変わっていただろう。
その後、Y社新入社員研修2週間を経て、東大阪市の商品管理部に全員配属。毎日のしごきに耐えながら苦しい日々を過ごす。「こんなことで根を上げてどうする。辞めるのは何かをつかんでから!」と、男としての意地で苦しい4~5月を乗り越えた。それでも週1回合える彼女の存在はひときわ大きかった。
また、5月のGWにあった社内運動会の長距離走で、並居るツワモノたちの面々の中「優勝」、商品管理部に歓喜の胴上げで迎えられた。「商品管理部に“小林”あり」と思われたのは、その後先輩・同僚たちに一目置かれる、と言う思わぬ副産物となり、その後彼女の店にもよく大挙して飲食に来てくれた。体育会系のノリの良さだろう。
約1年で沖縄に転勤。その後父の勧めで福岡に営業所がある紙製品メーカーA社に転職したが、その後も「しごきに耐えた」と言う経験は、いざという時に大きな力になり、どんな危機にも「死にはしない!」と開き直れる、私のタフさの原点となった。
しかし、それから40年たった今、私の社会人人生では、諸々の苦難があった。「苦難福門」と言われるが、そうやって知らないことに直面し苦労する(体で覚える)ことが成長であり、幸せに入る入口である、と言うことでしょう。新社屋建設でまた新たな苦難に直面するかも知れません。その時も「人生はニコニコ顔で命がけ!」の精神で“ニコニコ顔”で乗り越えます!!