健康第一 | 行政書士五十嵐友紀子物語

行政書士五十嵐友紀子物語

北海道の札幌市郊外にある雪深い街、江別市でひっそり行政書士業を営んでおります。
毎日書く、ただそれだけを目標に徒然なるままに日記を書こうと思います。
※フィクションではありません。

約1年ぶりの投稿です。

去年の今ごろは、来年にはとっくにコロナが収まってマスクを外した通常営業ができていると思い込んでいたが、甘かった。

五輪も1年延期され安心していたが、まさか1年後もまた再度緊急事態宣言の真っ只中にいようとは予想だにしなかった。

しかし1年延期できたものをもう1年延期とは簡単にいかないもので。今年は延期説はとんと聞かなかった。

せっかくの日本開催、選手達のために、なんとか可能な限りいい形で終われるといいなあと切に願う。


しかし「まさか」は長い人生、誰にでも起こるもので、私は今年生まれて初めての経験をする羽目になった。


1月後半のある日、いつも通り夜食べて飲んで気持ちよく寝床に入ったのだが、明け方5時頃、異常な腹の痛みで目が覚めた。

起き上がるのもめんどうだし、ややもすれば痛みも去るだろうと思っていたが、経験したことのない痛みは増すばかり。

這って階段を降り、とりあえずトイレに入ってみたものの出るのは脂汗ばかり。
歩くのもままならず、異常を感じた私は夫を起こし、救急車を呼んでくれとSOS。

駆けつけた救急隊員に色々尋ねられたあと、無事最寄りの病院に搬送してもらえることに。

真冬の悪道、振動がもろに腹に響き、途中運悪く踏切が閉まり、それはそれは地獄の初救急車体験となった。
救急処置室に行き、レントゲンを撮り、若い当直医はまず「夜間に運ばれる患者さんはほとんどが便秘です」と言って、浣腸を刺された。
めったに便秘などしないのだが、なされるがまま用を済ます。
でも一向に止まない痛み。「便秘ならこのまま帰ってもらうしかないが心配ならCTを撮ります。どうしますか。」と聞かれ、当然CTを選択。

CT室から先程の処置室に戻ると先程とは打って変わってただならぬ雰囲気。札幌から来ていた若い当直医が帰り、別の医師がCT画像を見ながら腕組みをし、婦人科の診察が必要とのことになり急遽婦人科外来へ回される。

そこで改めて内診し、卵巣に腫瘍があり破裂したので緊急手術をするとのこと。「開腹手術をする」「命に関わる手術になる」と言われたことだけはなんとなく記憶にあるが、頭が真っ白になりあまりその当時のことを覚えていない。とにかく即入院とのことで、夫に仕事の引き継ぎをし、荷物を依頼。コロナの検査を受け数時間後病棟へ移動する。

そして昼頃MRIを撮り、主治医の診察を再度受ける。心の準備もできないまま看護師と共にすでに手術の準備をしていたところだが、主治医によると、まだ年齢的にみて卵巣機能を残すことを考えるならば、数ヵ月待ってからだの準備を整えてから手術をしたほうがいいのではないかとの話だった。もちろんその治療計画に受諾。


ともあれ卵巣に爆弾をかかえ、破裂もしたのでまずはそのまま1週間の入院に。

痛みは数日で引いたが、幼い頃以来の入院で、その上コロナ禍でもちろん面会不可。痛みのあとは孤独と先々の不安で毎日メソメソ泣いて暮らした。

病室の向かいには新生児室があり、昼夜響く泣き声の大合唱に夜も眠れず、心も体も押し潰されていった。

同室のお婆さんたちは「あらあら元気でいいわね」と笑っていたが、私は急いで売店に行き、耳栓を購入。赤ん坊の泣き声なんて産婦人科病棟の日常なのだから仕方がないとわかっていても、自分の心の狭さに嫌気がさし、このまま一人も産まずして子供を産めない体になるかもしれないという恐怖に、心のほうが限界だった。

そして1週間後再度診察を終え、腫瘍は消えることはなかったが、まずは一時退院となった。


退院後は毎日薬を飲みながら、仕事をセーブさせてもらいなるべく穏やかに過ごした。

爆弾を抱えている以上はまた爆発するんじゃないかという恐怖もありながら、5月の手術日が決まってからは今度は手術が怖くて怖くて逃げ出したくもなった。


そしてGW明け、とうとうその時がやってきた。

手術といえどももちろん家族の付き添いはNG。まあ手術なんて麻酔で眠ってしまえば自分ではどうすることもできないので、医師たちにすべてを託すしかないのだが。

当日の朝の診察で、信頼していた主治医のご家族に不幸があり、急遽代わりの医師が手術を担当することになったと聞いたときは、一瞬ショックで愕然としたが、もうこればかりはジタバタしても仕方がない。

手術着に着替え、歩いて手術室に入り、手術台に横になる。

平静を装っていたがおそらく顔が強張っていたのだろう。手術室の担当看護師が麻酔の直前までずっと声をかけて手をさすってくれていた。その優しさに思わず涙が溢れたのを覚えているが、その直後あっという間に意識はなくなっていた。

手術中は、長い悪夢を見ていた。内容は全く記憶にないが、恐ろしい悪夢を見ていたことだけははっきりと覚えている。

夢の途中で、看護師達の声が聞こえ目が覚める。手術を受けていたことを思い出す間もなくバタバタとすぐにストレッチャーで病室に運ばれていく途中、手術室の時計を見ると、18時近く。13時に始まり、3時間程で終わる予定だったが5時間近くかかったことになる。

病室に戻るとすぐさま吐き気をもよおし嘔吐する。ちょうど同室の患者さんたちに夕食が運ばれてきた音がしていたので、申し訳なかった。

その夜は痛みと尿道カテーテルが繋がっているせいもあり、寝返りを打つのも一苦労だった。

さすがにその夜は赤ん坊の泣き声で何度も目が覚めるので、点滴を交換しに来た看護師に頼み病室のドアを閉めてもらった。

翌日は尿道カテーテルを抜き、トイレに歩いて行くところから始まる。痛み止めを飲みながらでも動くようにと言われたが、その日は病室内のトイレと洗面所に行くのがやっとだった。

食事はお粥が3食出たが、まだ気持ち悪く食事を受け付けない上に、苦手なお粥にさらに食欲がわかず、おかずを数口つつく程度だった。

術後2日目になって普通のご飯が出てきて、やっと久しぶりに少しづつではあるが食べられるようになってきた。

お腹がすく、食べる、排泄する、シャワーを浴びる。どうにか人間の基本的な行動ができるようになって少し安心する。

そして緊張の退院前診察にて無事退院許可がおり、予定通り1週間で退院となる。

まだ色々と行動に制限付き(禁酒など)ではあったが、とにかく家に帰り、夫と猫の顔を見られたのが何より嬉しかった。


今回の病気で、仕事は激減し、ホルモンバランスも崩し、まだ完全復活とはいかないが、とにかく健康のありがたみを痛感した。婦人科系の疾患は大なり小なり周りでも多くの人が経験しているが、こればかりは誰かと痛みや苦労を共有することもできず、ましてや医者も男性なので説明してもどこまで伝わっているか謎の部分はあり、本当に悩ましいところではある。だからこそ自分は健康だからと高をくくらず、最低限検診は毎年受けてほしい。私も会社員時代は毎年受けていた健康診断も、そのうち行こうと思いつつ数年放置していたことを今回強く反省した。自営業なので、病気になって働けなくなればもちろん収入はゼロになるし、自分で仕事のスケジュールを調整しやすいことはメリットだが、同時にスケジュールに空白が増えていくたびに先々の不安は増すばかり。


でも今回のことを機に、自分の健康あってこそのお客様であることを忘れず、一つ一つのお仕事に今まで以上に大切に向き合っていきたいと思いました。特に高齢者関係や、民事案件を主に扱う私としては自分が元気でいなければお話になりません。


そしてコロナ時代に未だ直面している我々は、自分の健康が、大切な人の健康を、そして医療従事者を守ることを忘れないように生きていかなければなりません。

入院中、我慢の限界だと言って飲み歩く人をモザイク付きでインタビュー映像を流し、一方では重症患者の受け入れ先が逼迫し、救急車でたらい回しになっている患者さんや、入院先が見つからず自宅療養中に命を落とす人が出たというニュースを病室で見て、涙が出ました。私がこうして予定通り手術を受けられたことも、今の状況では決して当たり前ではなかったということです。


最後に、今回お見舞いのメッセージやお見舞い品を送ってくださった方々に、心より御礼申し上げます。

孤独な入院生活、皆様からのあたたかい応援のメッセージが唯一の救いでした。

コロナが収束し、いつかまた皆様とマスクを外して笑って飲めることを、楽しみにしています。