およそ27年間この仕事をやってきて、私が追究し続けたこと。
教育とは何か?
それは、与え続けることです。
生徒から何も与えられなくても、与え続けること。
それが私のいくつかある教育観のひとつです。
具体的にお話ししましょう。
子どもに勉強を教えます。
しかし、子供は思うように成績をのばしません。
そのとき、普通なら、イライラしたり、なぜだろう?どうしたらいいのだろう?と思います。
しかし、その時点で、私は、こどもからの見返りを期待し、ある意味強要していることになります。
私は子どもに、
「勉強というのは、誰かから無理矢理やらされたり、やらなければ罰を受けるから仕方なくやるものではなく、自分の目標を達成するために、或いは知りたい知識を得たり分からないことを解明したりするために行うのだ」
と教えます。
しかし、子供たちは、いつまでたっても主体的積極的に勉強しようとはせず、宿題を忘れ、持ち物を忘れ、勉強しているのかと思えば何か違うことをしていたり、友達とおしゃべりをしたりしています。
私は、その度にそれに本気で対応します。
何度も何度も、主体的に勉強することの大切さを訴えます。
しかし、子供たちは、それをただ叱られたと受けとり、一時的に見せかけの静けさややる気を見せますが、それは本気の決意ではありません。
普通ならここで、子供たちに対する怒りで一杯になってしまうでしょう。
しかし、そこは自分の問題なのです。
見返りを期待しないこと。
私は、へとへとになるまで子どもに訴え続けます。
漢字の書き取りなどの罰も与えます。
しかし、それによって、どうしても今この場で子供たちを変えようとは、夢にも思っていません。
私の思っていることは、常に、
「子供がわかってくれようがくれまいが、自分は自分の限界まで、全力を尽くそう」
ということです。
見返りを求めるとマイナスの作用が現れます。
見返りを求めるというのは、成績が上がるとか、子どもがせっせと勉強するとか、そういうことを求めるということです。
「でも普通、そういう風に思うのは当たり前でしょう?」
そうおっしゃる方はたくさんいらっしゃるでしょう。
しかし、そう思うと、それが達成されなかったとき、あなたの心は、やるせなさでいっぱいになってしまうのです。それは炎となり、あなたの優しい心もお子さんの可愛らしさもすべて焼き付くしてしまうことになります。
あなたが花の種をまいたとします。
あなたは毎日、水をやります。
いつか、それが美しい花を咲かせるのを夢見て。
そこに怒りはありますか?
それが見返りを求めない教育です。
水をやることそのものが教育なのです。
もし、その花が、その年に花を咲かせなくても、あなたは怒ることなく、来年に向けて、また水をやり続けることでしょう。そして、もはや、花を見ると言うことより、水をやることそのものが楽しい行為になって来るでしょう。
私にとっての教育とはそういうものなのです。
私は、決して甘くはありません。
すごい勢いでしかることもよくあります。
しかし、そんなときでも、私は、見返りを求めません。
自分の誠心誠意の言葉を伝えようと思っているだけです。
子供たちが今、目の前で花を咲かせるのを見たいとは思いますが、無理にでも今、咲かせようとは思いません。
いつか、風の噂で、その子がしっかりとした人生を歩んでいることを聞いたとき、本当に、ああ、良かったなと思うのです。
教える方が真剣になればなるほど、
「どうしてあなたはできないの?」
という気持ちでいっぱいになります。
それはそれでいいのです。
しかし、あなたは、それをどれだけ長く続けられますか?
いつかは、
「もういいよ、勝手にしなさい!」
となってしまうのではありませんか?
それは、水をあげるのをやめることです。
植物がちょっと花を咲かせないくらいで水をやらなくなるのなら、最初からやらない方がいい。
私は、何年でもそれを続けられます。
そして、6年生のこの時期になって初めて、私は、彼らの自主性の総合テストをします。
つまり、すべて彼らの自主性にまかせるのです。
今ますべてのお膳立てをして、いちいち指示をしてきたことをやめ、彼らに自分でやらせてみるのです。
それもまた、水をやるということです。
徹底的に手をかけ、最後には一人立ちさせる。
それが私の教育です。
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教育とは何か?
それは、与え続けることです。
生徒から何も与えられなくても、与え続けること。
それが私のいくつかある教育観のひとつです。
具体的にお話ししましょう。
子どもに勉強を教えます。
しかし、子供は思うように成績をのばしません。
そのとき、普通なら、イライラしたり、なぜだろう?どうしたらいいのだろう?と思います。
しかし、その時点で、私は、こどもからの見返りを期待し、ある意味強要していることになります。
私は子どもに、
「勉強というのは、誰かから無理矢理やらされたり、やらなければ罰を受けるから仕方なくやるものではなく、自分の目標を達成するために、或いは知りたい知識を得たり分からないことを解明したりするために行うのだ」
と教えます。
しかし、子供たちは、いつまでたっても主体的積極的に勉強しようとはせず、宿題を忘れ、持ち物を忘れ、勉強しているのかと思えば何か違うことをしていたり、友達とおしゃべりをしたりしています。
私は、その度にそれに本気で対応します。
何度も何度も、主体的に勉強することの大切さを訴えます。
しかし、子供たちは、それをただ叱られたと受けとり、一時的に見せかけの静けさややる気を見せますが、それは本気の決意ではありません。
普通ならここで、子供たちに対する怒りで一杯になってしまうでしょう。
しかし、そこは自分の問題なのです。
見返りを期待しないこと。
私は、へとへとになるまで子どもに訴え続けます。
漢字の書き取りなどの罰も与えます。
しかし、それによって、どうしても今この場で子供たちを変えようとは、夢にも思っていません。
私の思っていることは、常に、
「子供がわかってくれようがくれまいが、自分は自分の限界まで、全力を尽くそう」
ということです。
見返りを求めるとマイナスの作用が現れます。
見返りを求めるというのは、成績が上がるとか、子どもがせっせと勉強するとか、そういうことを求めるということです。
「でも普通、そういう風に思うのは当たり前でしょう?」
そうおっしゃる方はたくさんいらっしゃるでしょう。
しかし、そう思うと、それが達成されなかったとき、あなたの心は、やるせなさでいっぱいになってしまうのです。それは炎となり、あなたの優しい心もお子さんの可愛らしさもすべて焼き付くしてしまうことになります。
あなたが花の種をまいたとします。
あなたは毎日、水をやります。
いつか、それが美しい花を咲かせるのを夢見て。
そこに怒りはありますか?
それが見返りを求めない教育です。
水をやることそのものが教育なのです。
もし、その花が、その年に花を咲かせなくても、あなたは怒ることなく、来年に向けて、また水をやり続けることでしょう。そして、もはや、花を見ると言うことより、水をやることそのものが楽しい行為になって来るでしょう。
私にとっての教育とはそういうものなのです。
私は、決して甘くはありません。
すごい勢いでしかることもよくあります。
しかし、そんなときでも、私は、見返りを求めません。
自分の誠心誠意の言葉を伝えようと思っているだけです。
子供たちが今、目の前で花を咲かせるのを見たいとは思いますが、無理にでも今、咲かせようとは思いません。
いつか、風の噂で、その子がしっかりとした人生を歩んでいることを聞いたとき、本当に、ああ、良かったなと思うのです。
教える方が真剣になればなるほど、
「どうしてあなたはできないの?」
という気持ちでいっぱいになります。
それはそれでいいのです。
しかし、あなたは、それをどれだけ長く続けられますか?
いつかは、
「もういいよ、勝手にしなさい!」
となってしまうのではありませんか?
それは、水をあげるのをやめることです。
植物がちょっと花を咲かせないくらいで水をやらなくなるのなら、最初からやらない方がいい。
私は、何年でもそれを続けられます。
そして、6年生のこの時期になって初めて、私は、彼らの自主性の総合テストをします。
つまり、すべて彼らの自主性にまかせるのです。
今ますべてのお膳立てをして、いちいち指示をしてきたことをやめ、彼らに自分でやらせてみるのです。
それもまた、水をやるということです。
徹底的に手をかけ、最後には一人立ちさせる。
それが私の教育です。
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