ずいぶん前のことになりますが、
私はある方に誘われて、ある宗教団体(ご本人は宗教団体ではないとおっしゃっていましたが)の集まりに出席したことがあります。
私は、宗教になど全く興味はなかったのですが、
その方は、塾のことで肉体的にも精神的にも疲れている私を何とか救いたいと思って下さったのだと思います。
マンションの一室には、私を含め、10名程度の人がいたように思います。
それが2つくらいに別れて、それぞれ「先生」のような立場の方のお話を聞くことに。
私を担当した先生は、確かある大学の教授をなさっていたと思います。
その方のおっしゃることを要約すると、
「だんな様や両親を大切にするとすべてのめぐりあわせがよくなる」
ということでした。
「自分のまわり(目上?)の人間にやさしくすると、自分も幸せになれる」
というのは何となく頷けます。
しかし、その方の言うには、そうすることによって、就職や病気なども良くなるということでした。
そして、そのようなお話を、今までにあった事実を例に出しながらお話しされるのです。
私は、違和感を感じずにはいられませんでした。
だって、両親に対する態度を改めただけで、今まで決まらなかった就職が、いきなりすばらしいところに決まったりするのです。
それとこれとは話が別なのでは?
と思いました。
しかし、その方は、それとこれには因果関係があるとおっしゃるのです。
そして、私以外の方々は、皆幸せそうな表情をして、「先生」のお話しを聞いていました。
私は、その後もその方からお誘いを受けましたが、それはお断りしました。
なぜかというと・・・
根本的な考え方が違うのです。
その方は、
「苦痛をなくすにはどうするか」
「もっと良い人生を得るにはどうするか」
を考えています。
私は違います。
私は、苦痛が自然なものならば受け入れます。
そして、もっと良い人生とは、自分の苦痛が減ったり、収入が多くなることではなく、心の満足を得ることだ、と考えます。
例えば・・・・
女の人が、赤ちゃんを産むには、産みの苦しみがあります。
これは、女性に与えられた、本来あるべき苦しみです。
それがあって初めて天使のような我が子を抱くことができるのです。
それを排除して、子どもだけを授かることを願うのは、どこか違うと思われませんか?
子どもたちに正しい道を歩ませるのも同じことです。
子どもに正しい道を歩ませようとするなら、大人が傷つき、苦労しなければなりません。
それが、自然の摂理なのです。
確かに、真剣に子どもたちや、保護者の方と向き合うと、イライラしたり、やきもきしたりします。
食事ものどに通らなかったり、眠れなかったりします。
しかし、それは、「産みの苦しみ」なのです。
それを誰かがしなければ、子どもはまっすぐに育ちません。
私はその「産みの苦しみ」から逃れようとは思いません。
かといって、それは自己犠牲ではないのです。
それは、そのこと自体が自分にとって「そうしたいから」です。
最終的に「産みの苦しみ」を味わって、立派な子どもを世に送りだすことが、私の「欲」なのです。
ですから、私は、単に自分の欲を手に入れているにすぎません。
それができている現在、私は、苦痛を取り除きたいとは思いません。
もっと高いステージに自分を持っていきたいとも思いません。
もちろん、その時その時で「目標」のようなものはあります。
しかし、私は私のできる範囲の中で苦しみ、そして、何かを得ていきたいです。
ある方のブログに良い言葉を発見しました。
其位素行
君子はその位に素して行い、その外を願わず
立派な人間というものは、運命を呪ったり 不平不満を言ったりせず 、
己に与えられた環境のなかで 精いっぱいの努力をし それ以外のことは考えない
ということですね。
自分に与えられた苦痛が天からの授かり物ならば、私はそれを受け入れながら目標を達成していきたいと思います。
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