まずは、この写真から。
上の本は、映画版のレプリカ(ちゃんとした本です。)。
下の本はハードカバーの英語版(緑と赤の2色刷り)。
現実の部分は緑、ファンタジーの部分は赤で印刷されています。
原作ドイツ語タイトル: Die unendliche Geschichte
英語タイトル: The NeverEnding Story
日本語タイトル:はてしない物語
作者:Michael Ende
この小説の中で、
主人公の少年はファンタジーのいろいろな場所に旅をするが、
ある港町に立ち寄る。(写真のページ、右側がその部分。)
原住民の男女は、とも同じような顔と体つき。
何をするにしても、常に共同作業をする。
何が一番の特徴かというと、
「I」という概念がなく、
自分たちのことを言うときは、「We」を使う。
主人公の少年も原住民と一緒に共同作業をし、
何かしらの「一体感」、「harmony」に酔いしれる。
しかしある時、大きな鳥がやってきて、原住民の一人を捕まえて、
飛び去ってしまう。
残された住民は何をしたか?
何事もなく、その共同作業を続ける。
少年は住民に、こんな恐ろしいことが起きたのに、
何で平気なのかと聞くと、
「何も起きなかったですよ。」の趣旨で返し、作業を続ける。
こんな話。
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これって、まさに、今の会社、または社会のことだ。
「I」の概念のない社会とは、全員が「誰でもない誰か」に過ぎない。
「誰でもない誰か」しかいない社会を想像しよう。
確かに、一体感、協調感、協力感は得られるだろう。
しかし、誰かがいなくなったとしても、
それが親であろうと、兄弟、家族、親友、恋人であろうが、
何も問題を感じない世界だ。
会社であれば、どんなに優秀な社員であったとしても、
その人が退職しても、何事もなかったように、
残った社員が日々自分の仕事をしている職場だ。
精神障碍者は、よく「普通の生活がしたい」と聞くことが多いが、
その「普通」って何だ?
社会の歯車の1つになって、「みんなが感じること」を
「自分も同じように感じたい」ってことか?
それって、必要か?
みんながどう感じようが、自分の感じたことの方が大切じゃないのか?
「I」を失った自分に、どこに価値がある?
それでも、「誰でもない誰か」になりたいか?