第1章 よみがえり (その1)

  

  前世から誰かが過去をひきつれてきたような、誰だろう過去を引き連れてきたものは、おまえは誰だ、誰なんだ、神か神の使い手か、いやいやそうではあるまい、そうだ、おまえはよみがえりだ、よみがえりにちがいない。

 

私はふと、目を覚まして周りを見た。ここはどこなんだろう、と。シンと静まりかえった静寂のなかに何かを感じ取ろうとしていた。今度こそ間違いなく私の知らないところにやってきたんだな、ここはどこだ、どこなんだろう。何度か目覚めた記憶の中で、前世の意識が現世の意識と交錯しながらやっと新世界に飛び込んできたようだ。

 

この不思議な意識の動き、前世の意識とは「ん?まだ死んでないのか・・・」という意識の活動であり、現世の意識とは「ん、今度こそ生き返ったか・・・」という意識の活動である。

 

 現世では、父が死に妹が亡くなり、そして弟までもそしてその2か月後に母も亡くなった。今や私は一人ぽっちになってしまったのだ。わが家族は解体だ、しかもろくにない相続財産に目のくらんだボロの弟と、弟の未亡人。相続問題のトラブルは仕事上いやほど聞いてはいたが我が家にもそういうことが起きようとは夢にも思わなかった。

 

 もちろん私が前世、前々世の記憶を持っていたとはわが家族も、誰も知りもしない。私も後10年前後生きているかどうか定かではない、それは神のみぞ知る。現世から来世に向かってその準備をしなければなるまいて、つまり来世はどこに生まれてくるかそれを予測しておく必要がある。

 幸いなことに前世、前々世の記憶からある程度推測することができる。前世がロシア、前々世がフランスで没、西から東に向かって生命原理が移動しているのだ。だから来世の方向は日本で没ならここから東に向かって移動することになる。東方面のどこの国に人間として生まれ変わってくるのだろうか、サウナ好きの私としてはフィンランドが希望なのだが方向が違うのが残念だ、過去の方向からすると北アメリカの方向のようだがさてどういうことになるのか。

 

第1章 よみがえり (その2)

 

 現在の私は幸運というべきか、たまたま投資した銘柄で分配金が入るようになり、この分配金で食っていけそうになった。人は「額に汗してパンを食め」の格言のように、労働によって食を得るものだと思慮して生きてきたのだが、こういう 生き方もあったとは。すでにもらっている些細な年金2か月に1回の12万円に、月12万円の分配金があれば十分食っていける、ありがたいことだ。何か今までの苦労が報われた気分だ、予想さえしなかったのだから。さてさて、この幸運がいつまで続くことやら。そもそも投信を行員にすすめられ、訳も分からず投資するようになったのが始まりなのだが。わからんものだ微々たる利息で満足してたのに、このような分配金や配当金が転がり込んでくることになろうとは。ところで分配金や配当金というのは元金が戻ってこそ初めて意味があって、元金が目減りあるいは戻ってこなければ自分の金をもらってたに過ぎないのでそこが要注意だ。ネット見てるとかなり儲けてる人がいるようだ、それも桁違いの金額だ、銀行あるいは証券会社の選択の相違が大きな影響を及ぼしているのかもしれない。ま、これからボチボチ研究していくしかないだろうて。

 

 文明の利器というものはありがたいものだ! 母が老人ホームに入居するようになって風呂場を使わなくなったところ、とんでもないことが起きてしまった。どこからやってきたのか「ネズミの子供」が入ってきたのだ、私の許可もなくだ。台所にいたのを見つけて初めてネズミの存在に気がついた。新築して36年間一度も見たことがなかっただけに、いや、新築前の古い建物ですら見たことがなかっただけに困惑してしまった。

 

 ネズミ対策として毒餌があった、スーパーで買ってきて試してみたが一向に効果がなく、食っているのに死なないのだ。そこで少し高いやつを買ってきて、置いてみたら姿を見せなくなったので死んだとばかり思って安心して暮らしていた。1年近く経って雨漏りで台所の天井の一部30センチ四方のパネルが落下してそのままにしていたら、ある日のこと米袋に小さなかじった跡があり、まさかネズミでは?と。ネズミの姿は見えないまま米を食われ、その入れ物までかじられたとあっては間違いなくネズミの仕業である。そこでもう一度ネズミシートを3か所置いて様子見ることにした。

 

 その翌日のことだ、まさかと思ったネズミシート3枚のうち風呂場前に置いてあったシートに見事ネズミの子供が張り付いていた。もちろん生きている、が疲れてぐったりとなっていた。「やったー」2年近く苦心惨憺してきたネズミ野郎の捕獲に感無量だ。とうとうこの日が来たか! 後の処置をしてごみ袋に、すべては終わった。文明の利器の大勝利だ。

 

第1章 よみがえり (その3)

 

 暑かった夏が過ぎて秋になったと思ったらすぐ晩秋となった。キンモクセイが11月に咲くという異常気象だ。こういう孤独の日々がやってこようとは、人生何が起きるやらわからんことだらけだ。9月末で業者の退会を済ませた。会費が高いのでやめることにしたのだ。強制会なのに高い会費、あれだけいつかはやめて転職するのだとの思いの日々から、決意の日がやってきたというのに妙に寂しい感傷的な気分だ。晴れがましい気持ちなど微塵もない。この老齢になってやめることになろうとは予想外だ・・・

 

 仕事から解放されたというのにうれしさよりも悲壮感が漂う。帰郷して仕事を手伝い始めたころのことが妙に懐かしく、あれから数十年も経ってしまったのかと、過ぎ去った時間がまるで昨日のことのように思い出されて寂しい限りだ。こんな寂しい晩年が待っていたとは! 今までの人生は何だったのだろうか、まるで夢を、悪い夢を見ているようだ。母の一回忌も済み、あっという間に一年が過ぎた。二人の葬式が昨日のことのように思える。

 

 人は死ぬべき時期が来たら死ぬ、その人の人生が全うされたときこの世を去るということだ。とすると、まだ生きている私はするべきことがあるから生きているということになるのだが、それでは私は何をするために生かされているのか。自然は無駄なことはしないからだ、晩年の私がなすべきことは何なのか、と。

 

第1章 よみがえり (その4)「投資について」

 

 今晩は、はからずも退会した会の恩恵にあずかり、忘年会の出席と相成った。思い起こせば酒席もままならない年齢で、初めての忘年会に出席した日のことが懐かしい。あれから数十年か、それも業者との最後の忘年会だ。父も弟も亡く、信じられない感無量の宴会となった、まさかこのような日がやってこようとは。

 

 12月の配当金、分配金の合計が20万5千円になった。税金も引かれていてタコ配でないことが判明、ありがたいことだ。思い起こせば7年前に積立投信を始めたことが投資のきっかけとなったのだが、銀行員に勧められたときに、たまたまキャッシュバック制度が始まり1万3千円のキャッシュバックをもらって続行となったのだ。さすがに銀行はすぐにこの制度をやめた、運が良かったというべきだ、タダでキャッシュバックをもらったのだから。

 

 当てにしてなかった外貨や配当金、分配金の収入が1年足らずで百三十万円程(税引き後)となった、これは信じがたいことだ。仕事をやめ、年金では公共料金の支払いでも足りず、貯金をおろして食っていかねばと思ってただけに実にありがたい収入となった。貨幣というのはアダムスミスの「国富論」にあるように、流動資本である。タンス預金してては本来の力を発揮することができない。そうすると貨幣を使用している国家は共産主義といえども、その基本には資本主義経済を基盤に持つと言えよう。

 

カントの貨幣の定義が素晴らしい、「貨幣とは、人間の労働を相互に取引するための普遍的手段である。」と。貨幣についてアダムスミスも同様な説明をしている。

 

11月まで順調に利益が出ていた投資信託は12月になると途端に下落を始めた。米国株3個は逆に12月以降徐々に上昇を始めた。投信は利益確定する時期を失してしまった、12月以来下落の一方で1月中旬にはマイナス100万円にも、さらに1月末にはマイナス200万にもなって。米国株はあれだけマイナスの多い日が続いていたが逆に1月初旬にはプラス91万円の高額になり、どちらも様子見を続けるのみとなる。いつどの金額のときに引き上げるか・・・むつかしい判断を要求される。

 

肝心なことを忘れていた、前世から考えて、現世の私は後8年前後の寿命だと思う。10年、20年後、考慮の投資信託のやり方では年齢的にダメなのに・・・早々と利益確定して引き上げるべきだった、今までのやり方でだ。米国株は「配当王」と呼ばれるだけあって3銘柄はこの下落時期にもプラス80万円ラインを保持している、購入してから長くマイナスが続いていたがプラスになってからは強いようだ、まだ購入してから1年も経っていないのに。

 問題は毎月分配型等の国内投信だ、昨年(初購入2021)はとても良かったので引き上げる機会を逃してしまったが、1年1年の清算で利確しながら様子見るという手法を確立すべきだった。歳が歳だけにだ。結論的に月20万円程度の配当金や分配金で十分なので欲を出さずにこの路線で投資の指針としたい。

 

年末から年明けにかけて投資信託の微妙な動きに黙視。引き上げる機会が見つからず。年末でいったん解約すべきだった、と。投資や株はこの年齢では長期は無視、1年1年できりをつけるのが最善と知る。とにかくむつかしさを知る。投信は7年過ぎたが株はまだ1年にならない、分配金目的で始めた投信は1年に近いが、1年目は大成功、今年に入ってからは含み損で辛抱の年となったが、あてにしてなかった米国株が右肩上がりで100万円突破から170万にまで含み益になり信じられない状況だ、配当金目的だったが引き上げる時期も検討しなければという状況になってきた。外貨定期は負け知らずだがドルを買い損ねた、125円を超えてどこまで行くのか買うにはむつかしい状況が続いて思案ばかりだ、それでも時期遅しと先日150万外貨定期、そして翌日も150万を定期しもはや運否天賦だ、運否天賦まかせに。その結果退け時とみて11万8295円でプラス収入となった。

 

銀行員や証券会社員の言葉、株や投資はギャンブルではなくあくまでも投資であると。FXはギャンブルだ、投資ではない。欲を出さずにじっくり焦らず辛抱して上がるのを待つ。上がったものは下がり、下がったものは上がる。

 

しかしまさか戦争が始まるとは! それもゼレンスキーの挑発行為や交渉のまずさのせいで戦争をよびこむことになりウクライナの市民や街はひどいことになった、戦争にならないように十分な配慮が必要なのにそれを怠った。プーチンは尋常ではないのだから。だが政治家というものは法律も経済も最高の知識を持ち、なおかつ強い人間でなければならない、つまり特殊な才能をもった人間の仕事なんだと知る。

 

 

 

第1章 よみがえり (その5)

 

日本に生まれてきて、今でも懐かしく思い出されるのが母から習ったひらがなである。あいうえおから始まる言葉を発音を聞きながら紙に書いて覚えたものだ。特に「え」と「ん」の字が何度も注意されて直されていたものだ。最後のはねの部分を「ℏ」のようにはねて書いていたからだが、私の記憶にはこのはね上げる書き方が正しいと勝手に思い込んでいたからだ。それからカタカナやアラビア数字の書き方や発音の仕方を学ぶ。アラビア数字は初めから知っていた、発音の仕方が違うだけで。世界共通の数字だからか、前世の記憶が残っていた証拠でもある。

 

言葉にしろ、そのほかの知識にしろ、過去の記憶と照合させるかのように残滓と比較してはすべての知識を学んできたのは事実である。カントの「純粋理性批判」における純粋悟性概念(カテゴリー)と感性による対象の結合は、この前世の記憶の残滓があってこそ活動するのである。

 

よく母の乳を飲んでは飲みすぎて戻したり、不純物を感じて吐き出したりしたものだが、こういう時に必ず怒鳴る男の声がしたものだ。それと乳を飲んだ後「ゲップ」が出るまで眠らせてもらえず、起こされていたのが辛い記憶として残っている。幼いころの遠い記憶、眠たいのに聞こえてくる「子守歌」、一歳になった、二歳になった、って何の年齢、そうかここにやってきて(生まれてきて)からの年数(年齢)か、と。

 

とんかつを初めて食った時の記憶、この美味さはこれは紛れもなく肉だと、肉食っていいのか。角砂糖を初めて見た時の印象、おほー、角砂糖かこんな高級なものがここにあるとは、それを齧って茶を飲み得意になってると男が言ったものだ「茶に入れて飲むと美味いぞ」。やってみると、美味い! なるほど、こういう飲み方があったのか、と。

 

ハイハイをし始めた頃(もちろんその目的で)や階段を上がり始めた頃にその高さに気づき怖くなって泣き出したりしたことが、まるで昨日のことのように思われる。

 

それにしても生きていた人間が死ぬ・・・この不思議な現象はいったい何なのだ。永遠の眠りにつく瞬間、我々は人の死に接するとき、まさにその瞬間にそれを知る、今死んだと。意識、生命原理、魂が肉体から離れる瞬間、それが見えないにもかかわらず顔の表情の変化からそれを感じ、亡くなったことを知る。魂そのものは我々の感性ではとらえることができない、にもかかわらずそれが肉体から離れたことを感じ、知ることができる。

 

それを証明するようなことがあった。子供が言った、あっお母さんが死んだ・・・私もその瞬間そう思った。死んだ瞬間我々はそれを感得することができるのは事実だ。私は思った、子供にもその瞬間がわかるのだ、と。これは私の妹が病院で息を引き取った時の経験だ。子供は妹の子供、女の子。小学生だったか、幼稚園だったか忘れたが。人は死ぬ瞬間に肉体から魂、あるいは意識、つまり生命原理が離脱する。肉体はもはや抜け殻に過ぎない、離脱した生命原理はどこへ行くのか、意識は肉体の感覚器官によって確認できるがその肉体を離脱するとどうなるのか。万能の意志つまりアートマンはブラフマンと結合するのか、生命原理は生まれたことも消滅したこともない、感性で把握できないこの不可解な存在。

 

それにしても前世がロシア、前々世がフランスそして現世が日本。この流れからして来世は北アメリカ、カナダあたりが復活の場所か。30年から40年後に人間としてよみがえっているので来世も死後そのころになるだろう、戦争のない平和な国でありたいものだ。まさか晩年になって世界でコロナが発生し、ロシアがウクライナに侵略戦争するとは想像すらできなかった。そして我が家にも弟や母の死がやってきてこのような不幸な時間を過ごすことになろうとは、まるで今までの出来事が夢のようだ。

 

前世の記憶は来世の希望を持たせてはくれるが、現世を生き抜くうえでは役に立たない。現世は現世でより一層生きるために努力しなければならない、生きることはまさに闘争である。ユーチューブの動画の虚々実々のもろもろ。ダーウインの進化論やら生命やら時間の存在やら、花粉症と同じで全く推測やでたらめな論調に民主主義の大きな弊害を苦慮する、要するに主張したいだけで(金儲けもありか)根拠のない論調が多い。

 カントが言う共和制の意味がはっきりした、民主主義に基本は置くが人権にある程度の差別を付ける。つまり誰もかれもに平等の権利を与えるのではない、誰もかれもに平等の権利を与えるのは噴飯もの。まさに今の日本の民主主義のていたらくの現実が証明している。堕落した民主主義の自己主張ぶりを見よ! 民主主義が浸透してなかったころの日本はまだまだ平和で自己制御があった。

 

大谷翔平や藤井聡太の活躍は日々の糧になり、ユーチューブの動画は株や投資信託のチエックと同様日課そのものだ。出来の悪い息子とはなんとか共存している。おかげで父が私をどのような目で見ていたのか明白になった、まさに息子を見る私そのものなのだから。今はその父も亡く、母もまた亡い。こんな晩年を迎えようとは、ギターの音色の切なさよ。

 

「辛抱する木に花が咲く。」とはよく言ったものだ、美味いものを食べさせているうちに息子の気持ちも和んできたか長年の懸案事項だった「壊れたまんまの網戸の修理を息子がやってくれた」予想外のありがたさに感激。さらに株や投資信託も200万円の含み損から300万円の含み益に上昇、FXは博打だが投資は違う。投資のむつかしさは欲を出さず、どれだけの利益で引き上げるか、この判断に尽きる。

 

先日、米国株2個売却、165万円取得もここから税金34万円ほど取られた(所得税と住民税)。株売却での収入は初だ。為替やら投資信託では少々利益を得てはいたが、まさか株で収入を得るとは信じられん。手数料取られて6万円の含み損他から出発しての思わぬ結果だ。貯金崩してほそぼそとやっていくかと覚悟してたんだが年金以外でこのような収入があろうとは幸運の一語だな。欲を出さずにちょろちょろと株や投資で稼ぐのが晩年の仕事になりそうだ。