第1節 歳を取ることの残酷さ

 

まさか母さんがこんな姿になろうとは・・・・老人ホームに入居した母さんを見てはじめて気がついた、母さんへのありがたさと感謝そして深い反省を、これ以上何を語れようか・・・涙なくして母への感謝を語ることはできない。歳をとるということは実に残酷なことだ、いやこれは私だけではあるまい高齢になればその感情はつのるばかりであり、人類史に語り継がれるべき重要な事実である。

 

若い頃はこんな晩年があろうとはつゆ知らず、わがまま気ままな生活をしていたものだ。今更後悔したところで始まらない、人生は、時間は進むばかりで過去に戻ることはできないのだ。老人になると言うことがこれほど残酷なことだったとは。若い者は誰も気がつかないし知らない、私のように。

 

第2節 60代と70代

 

60才になった頃はまだまだ若いつもりで、50代となんら体力も精神的にも変化がなかった、単に60才になったというに過ぎなかったのだが、さすがに70才になると残りの人生そして死に備えての準備を検討することを考えるようになってきた。まだまだ気分は若いつもりなのだが。

 

若い女は実に可愛いものだ、ややこもそうだが年齢を重ねるたびに共通の可愛さがある。女、もちろん20代前後の若い女であって男に恨みを感じたことのない女だな、そこが子供と共通のものがある。私も女の子を一人欲しかった、男は育ったら父親のそばにもこなくなって誰かが言ってたがつまらんもんだな。

 

子供それも3歳前後のややこを見ると、子供は神の子だという言葉を実感する。子供の純粋な目や顔、言葉使いにそれを感じてやまない。

 

老人ホームへ母親に会いに行ってきた、今年95歳になるんだが自分では58歳のつもりでいるようだ。両手はすっかりいうことをきかなくなり食事も食べさせてもらっているようだ。意識ははっきりしているが日常会話はない、なにを考えているのやらまったくわからない。人間は歳を取るとこんな状態になってしまうのか、台所で料理をし日常会話があったあの母がまるで別人になってしまった。

 

第3節 生命現象のからくり

 

我々の創造主は生命原理やその生命現象のからくりが見破れられないように仕組んでいる。これではいかに聖賢哲人がそれを我々に伝承しようとしても理解できないわけだ。

 

人間の認識能力を研究したカントの「純粋理性批判」、これは内容の凄さからいってもとても一般人に読みこなせるものではない。人間の認識能力ですら理解できないのに生命現象のからくりなぞわからなくて当然だ。

 

有名な多くのあるゆる分野の学者ですら、人間の認識能力を知らずに学問的研究に没頭しているんだから一般人がわからなくても当然である。

 

カントがやったように経験的認識から経験に一切かかわらない認識、純粋認識に向かったように我々の誕生した時の記憶にさかのぼって生命現象を考察するのは適切である。我々の記憶はそこからはじまったからだ。

 

生まれてくるや初めて意識が戻った瞬間、それはまさに再生を意味するのだが、その意識は前世からの意識の継続である、この事実は疑う余地がない。なぜなら経験からつまり私の誕生時の記憶からそれは明白だからである。

 

生まれてくるや継続された意識と前世でのいくつかの概念が結合された状態で意識は存続している。外気の雰囲気から私は今いる場所が(生まれてきた場所)中国か日本ではないかと感じたことを覚えている。私は前世で知っていた中国や日本の概念を忘却することなく記憶していたということになる。

 

カントは「純粋理性批判」で我々の認識は経験的な認識と全く経験に基づかない認識があり、それをア・ポステリオーリな認識とア・プリオーリな認識と呼んでいる。

 

生まれてきたときに前世のわずかな記憶、意識が存続している。だから生まれてくるとそこから意識そのものが始まるのではなく、存続する意識として活動するのだ。つまり意識は前世からの継続した意識として活動する。意識そのものは生命原理そのものであり、生まれたこともなければ死んだこともないと。

 

おそらく人間は昨日のことさえ記憶になかった時代があったに違いない、誕生後の前世の記憶喪失や老後の現世での記憶喪失の経緯が、意識は存在しながらも記憶だけが喪失していくという現象をどう説明すべきか。

 

人間の自然の寿命を100年とするなら33年間は睡眠時間に匹敵する時間として、死後33年前後の時間に再び生誕することになりそうだ。1日の24時間のうち8時間が睡眠としての時間に換算してだが、それは睡眠という不思議な現象と死が酷似しているという関係から算出した憶測ではあるが。

 

今とても恐ろしいコロナウイルスが蔓延しているが、こういったウイルスなるものが自然界に存在して、自然の驚異と人間の脆弱さを痛感させることによって人類に警鐘を乱打しているのであるが、人類の英知がまだまだこの程度のものだったのかと感じるといたたまれない気持ちである。

ペストだとか疫病とか言われるものは過去のものであって、現在では人類の医学的知識や文明、文化の発達で縁のない世界のできごとだとばかり思っていたのだが。学問の退廃ぶりや驕り高ぶりの成果がこれかいなと残念無念である。

 

コロナウイルスは夏になると梅雨や、紫外線などにより消滅するだろうとの憶測があったが全くこの情報は事実ではなかったようだ。人間の知識や憶測などというものが自然の驚異の前では微弱なものだと痛感させられたしだい、あの世が近くなってきてこういう人生観を享受しようとは。

 

第4節 永久の記憶(前世の記憶あれこれ)

(その1)

 

私の身辺が慌ただしくなってきたようだ、コロナと言い晩年になって遭遇したこともない不穏な時の流れ。あれほど活気にあふれていた時代は遠く過ぎ去ってしまい、静かな晩年を送れるかと思っていたのだがそうもいかないようだ。

残り時間の少なさを考慮すれば、終盤から見た現在の活動や人生観を建設しておかねばならない。こういう晩年を想像だにできなかった。人生過ぎ去るのはあっという間である。

 

まさか戦友とも言うべき仕事の友である弟が・・・亡くなった。別れの挨拶すらすることもできず、あまりにも 突然とも思える逝去。癌がリンパ腺に転移していたらしい、本人はそれに気が付かず酸素不足を嘆いていたようだが。

 

これまでしたことのないような大喧嘩をしたり、兄弟愛が憎悪にとってかわり兄弟げんかの最たるものになったこともあった。それを回避したのは弟の借金を私が立て替え払いしてからだ。なぜそうしたのか未だにわからない、兄弟愛を凌駕した憎しみがこのときになぜ変貌したのであろうか。意味不明なことである。ひょっとしたら弟の死を無意識のうちに予感していたのだろうか・・・

 

 

父が死に、妹が死に、そして弟までこの世を去ってしまった。まさか兄の私より弟が先に世を去るとは、父の言葉を思い出す「親死ね、子死ね、孫死ね」と。人は生まれた順番に死ぬべきものなのに。

 

(その2)

 

私はいつ死んでも後悔をしないように残りの人生を過ごすことにした。今の人生観と若いときの人生観とは雲泥の差である。このブログはブログであっても私の日記帳も同然である、しかもありがたいことに閲覧者が少ない。このブログの真の目的は来世の私自身のためのものでもある。

 

つまり前々世、前世、現世と生きてきたことの記憶と仕事を来世に継続させる必要がある、そして人間の生死は一つの人生の姿に過ぎなく、新たなる人生に向かって再び復活を繰り返す、と。

 

弟の死がこれほど強烈なものとは想像すらできなかった、死というものが現実に存在するということ。愛憎の念深しの弟が亡くなって言わば車の両輪の一つを失いすっかり人生観が変わってしまった。もう後戻りの道はなくなったのだ。私も来世のための仕事が残され、それを仕上げることが残りの人生の目的になってしまった。

(その3)

それでは私の前世、前々世について語ろう。私の前世はレフ・ニコラエヴィッチ・トルストイである、そして前々世はジャン・ジャック・ルソーである。トルストイの時代に書いた論文等を見れば私の前々世がジャン・ジャック・ルソーであることは明白だ。何の説明もいるまい、わかりきったことだ。

 

私がトルストイの時代に死はない、人は一度の人生ではなく再度再び復活すると論文で発表してきたはずである。当時から、現代まで誰も信用してこなかっただけのことに過ぎない。今回の人生は私から見れば大失敗の人生ではある。しかしそれはこの国に生まれてきたときに決断した人生方針がまちがったというにすぎず、今となっては後悔しても何の意味もなく、来世への希望に託すしかあるまい、まだまだこれからも未知の人生が続いていくのであるから。

 

私がトルストイやルソーであったことをあえて証明する必要はないが、この著作、論文である「永久の記憶」こそがそれを証明しているであろう。一寒駅で病没してどうやってここ日本の地にやってきたのであろうか、人は死ぬと魂、あるいは生命原理は肉体を抜け出す。肉体を抜け出すくらいだから天井や建物などの障害物はないに等しい。TVなどで肉体を解脱した魂が部屋の上部に浮いている様子を表現しているものがあるがありえない画像である。想像で表現しているに過ぎないニセ画像である。

 

生命原理、意識(のことでもあるが)は死後どこへ行くのか、輪廻転生。上手いことを言ったものだ、まるで見てきたような表現だ。この現象を我々の感性でとらえることは不可能である。感性と悟性が結合して認識に至るのだが、超感性的なものは人間の認識能力を超えているからだ。

 

弟の死について語る予定だったが、またもや不幸が発生してしまった。今度は老人ホームに入居していた母が亡くなったのだ。弟の死後2か月後に母までも・・・ 母には弟の死については伝えてなかった、あえて伝えなかったのだが。95歳の長寿、いつ亡くなっても不思議ではない年齢、しかも元気で食事していたというのにわからんものだ人の命は。

 

私の前世については当然ながら父にも母にも言ったことはないし、また言う必要もないだろう。生まれてきたときの父や母の記憶を思い出すと奇妙な懐かしさを感じるものだ。こちらは前世の意識で接し話してるので父や母などと言われてもピンとこなかったわけだ、当然ながら。歳も一歳や二歳になったなどと言われてもホーそうかいなという気持ちだったな。完全に前世からの意識が活動していた証拠ではあるのだが。

 

前世の記憶があっても現世における家族の死亡は骨身に堪える、実に。前世の記憶は現世の不幸に対して何の役にも立たないとは、無力なものだ。こうも立て続けに不幸がやってくると、今まで家族と生きてきた人生は何だったのかと考えてしまう。父の死、妹の死、弟の死、そして母までも死亡、まるで悪夢を見ているようだ。昨日までの人生は何だったのか、と。認知症であれ、老人ホームの生活であれ生きていてこそ会うことができる。死んでしまってはもはや会うことすらできないのだ、生きてることと死んでしまったこととではあまりに違いが大きすぎる。

 

半分夢遊病者のような気持ちで日々すごしてるのだが、死後の市役所や病院、老人ホームの手続きなど雑用が多くて気分が滅入る。理性的に生活してたら気が狂ってしまうだろう。サウナと帰宅しての餓えたようにして飲む麦酒や焼酎のおかげで忘れる時間ができるのはありがたい。

 

まだ10年は十分生きていけるだろうと漠然と考えていたのだがこれでわからなくなってきた。年々私の周囲の生活は日々悪くなるばかりだと気がついた。歳をとればとるほど人生がよくなっていくことはないのだと。来世に向けての生活の日々にしていかねばならない。明日は我が身かも、と。

 

日本に生まれてきたと知った時の失望感、それが住めば都になり、去りがたい気持ちがつのるばかりに。人間ってわからんものだ。初めて日本にきて母や父、そして弟に会ったあの遠い日がまるで夢のように過ぎ去った。

 

(その4)

「人はいかに生くべきか」、「我ら何をなすべきか」、「芸術とは何か」、「人生論」こういった思想や書物は何の役に立ったのであろうか。今となってはまるで浦島太郎だな。かって前世の知人や隣人、友人もいない、そして今また現世のかつて知り合った仕事の依頼者も知人、友人それに親兄弟までもあの世に、これではまさに現代の浦島太郎だな。若いときに見た未来の姿の現実がこのようなものであったとは、まるで夢を見ているようだ。いや、むしろ生きていることの方が不思議なくらいだ。

 

何気なくユーチューブの動画「蔵」を見た、琴の音色と北国の風景。このような作品が女性の手によるものとは。このような感動と人情の深さを秘めた作品がこの私にも作れるであろうか、と。しかもここで流れている音楽はなんという物悲しさだろう、悲壮感漂うこの曲は今の私の心境そのものだ、わからない、どうしてこのような曲が生まれてくるのだろうか、どのような心情からこのような曲が、遠い遠い忘れ去られた過去から生き返ってきたような、まるで前世から現世にやってきたような不思議な曲だ、前世から誰かが過去をひきつれてきたような、誰だろう過去を引き連れてきたものは、おまえは誰だ、誰なんだ、神か神の使い手か、いやいやそうではあるまい、そうだ、おまえはよみがえりだ、よみがえりにちがいない。

 

そうだ、そうだ子供は子供はまさに神の子だ、疑うことを知らないあの純粋な瞳、子供たちの過去の記憶はどこへ行ってしまったんだろう。眠りとともに去ってしまっていったんだろうか。

 

第5節 弟と母の死後について

 

二人も身内の人間が突如として亡くなってしまい、本当に一人ぼっちになってしまった。あまりの突然の出来事に意気消沈、日増しにその思いが深まってきた。今までの人生はいったいなんだったのか、と。そこへもってきて一番下の弟の異様な言動! 弟の葬式にも母の葬式にも「コロナの影響で」帰郷しなかったこの男がどういうわけか急に相続の件で帰郷したいなどと言い出したのだから。まだコロナは終息していないのにそのことは一切頭になく、やたらと確認したいので何日か帰郷したいというのである。

 

おかしなことを言いだしたものだと思ってはっと気がついた、家族の誰かが欲ボケして吹き込んだに違いない。母の相続財産のことだ。母の財産などろくに残ってもないのになにがしかの財産があるだろうと勝手に推測して、いたたまれなくなったのか性急なメールが流れてきたのだ。

 

欲ボケは恐ろしい、人間をすっかり変えてしまった。そこで初めて気がついた、この男がなぜ躓いた人生を送っているのか、司法試験崩れの典型的な末路の人生、善良そうなこの人間がなぜこのようなつまらぬ人生を送っているのか不思議だったが、これで謎が解けた。そしてそれと同時に思った、この男はもうこれから先出世することもなければ成功することもないだろうと。ある程度の成功を私は願っていたがそれはありえん、この男の性格上もって生まれた心の弱さからくる卑しさや道徳感の低さからもあり得ないことだと確信した。

 

人間ってやつは持って生まれた運命とその本人の特質である性格が人生の方向性を決める。やさしさの裏側に弱さが付属するようにあたかも補色関係のように表と裏がある。カントは言った「人間は曲がった木であると。それをまっすぐにしようとしても無駄である、曲がった木は曲がったなりに生かすしかない、自然に逆らうことは天に唾するようなものである。」と。

 

晩年になって、このような人生を送ろうとは夢にも思わなかった。人というものがこれほど簡単に亡くなってしまうとは、生きていた頃のあの日々の生活はいったいなんだったのだろう。すべて遠い過去の幻想になってしまった。こんな人生が待っていたのかこの私に。自分自身に文句を言いながら生きてきた人生、何でこんなところに生まれ、こんな人生を歩まなければならなかったのだろう。残念な人生だ、実に。

 

20代はジョギングや海に山。30代はソフトボールに熱を上げ、40代から50代は訴訟手続き、キノコ採り、オートキャンプに熱中、60代はパソコンと料理に、70代になって投資と株にはまり・・・まだ死なずに生きている。この先何が待っているというのか。

 

東京在住での借家契約満期からひょんなことで、東京から息子が帰郷することになった。28年ぶりの再会か・・・感無量だな。こういう日が来るとは思ってもいなかった、弟も母も妹も父も今はいない。これから新しい人生が始まる、それになんと言っても骨を拾ってくれる人間ができたことはうれしいかぎりだが。

 

2022/8/31 息子が帰郷した。学生時代とほとんど変わっていなかった。メールでやり取りしたり送りものをしたりしていたので、以前よりはるかに親しみ深くなっていて安堵した。これから二人の新しい人生が始まる、女手不足なので早く妻を見つけてやらねばと。それにしてもこれからの人生はどうなっていくんだろうか。

 

子供と言っても47歳、帰京してから1か月が過ぎた。洗濯やご飯炊き、洗い物をしてくれるので助かっているが、帰郷しても仕事は全くしない、で収入もゼロ。47歳と言えば働き盛りだ、にもかかわらず無職、その気力さえ見えない。おめおめと新聞配達風情で今まで過ごしてきた報いが来たようだ、何の反省もなく将来への夢も希望もその活力もない。帰郷して3か月近くになるが、東京でもこんな暮らしをしていたのか、朝からパソコン見るだけ、疲れたら3階に行って引きこもり食事のときだけ下りてくる。会話はすこぶるうまくいってはいるが私の腹蔵は隠したままだ。「働かざる者食うべからず」そう言って怒鳴りたい気分だ、情けない人間に育ったものだ。帰郷時の荷物の片付けもそのままにしたまま、こんな役立たずになっていたとは知らなかった。

 

いわゆる一般社会人の生活ではないのだ、47歳といえば働き盛り。月に30万から50万以上の収入があっても不思議ではない年齢だ。東京で某大学に通い(卒業もしていないのだろう)、その後も新聞配達で月10万円の収入生活をしていたらしい、あの生き馬の目を抜くと言われる都会でこれで満足していたとは、10万円で満足していたのか、欠陥だらけの人生観、変人、このざまはどうしたことか、いつからこんな人間になってしまったのか。社会常識、社会人としての認識が全く欠けている。少々頭がおかしいのではないか、中学、高校生レベルの低い人生観にしか見えない、引きこもりあるいは役立たずなニートか、いつからこんなバカになってしまったんだろうか、と。

 

今更帰郷した子供のことを後悔しても始まらない、馬鹿な息子を持ったのも運命と言うやつだ。残り少ない私の人生をどう生きていくかそれだけだ。父も母もそして弟も妹も亡くなって、そんな独り暮らしの人生を考えたことすらなかった。子供のことはどうでもよい、腹蔵をさらすことなく知らぬふりして、見て見ぬふりして生きていこう。なんという寂しい晩年だろう、家族がいなくなってしまうなんてそして希望の火が消えつつあるのを見ながら生きていくことになろうとは。

 

ある友人が言った、悪いのは民主主義ではなく資本主義だと。私は民主主義の名を借りてその堕落ぶりを伝え共和制の主張をひた隠しにしていたのだが意見が分かれた。アダムスミスは「国富論」で貨幣は流動資本であると言っている。貨幣が流動資本なら、貨幣経済を根本とする社会はどう考えても資本主義ではないのか、たとえ共産主義であろうとも。資本主義が悪いのなら貨幣の存在を否定しなければならなくなる。貨幣とは何か、絶妙な定義があった、「貨幣とは労働を相互に取引する普遍的手段である」と。労働はすべての国民の普遍的義務ではないのか、労働と貨幣は共存する、これをいかに解釈すべきや。

 

 弟が死んだ、そして母も死んだ。なんてこった、なんてこった、どうなってるんだ、これはどういうことだ。父が急逝した時、兄弟で頑張っていかなくてはと、仕事に明け暮れて過去を振り返る余裕はなかった。あれから40年あっという間に時は過ぎ去り弟も母も。家族が、家族が・・・消えてしまった。

 

昔の人は上手いことを言ったもんだ「民主制は衆愚制に堕す」と。今の日本はまさにその渦中にある。これから先どこまで流されていくのやら。民主主義の当初、誰もが自己主張をすることもなく控えめで、おいおいもっと自己主張してもいいんでないかいと思ったもんだ、おっ、自己主張の始まりがと思ったのもつかの間、今やだれもかれもが「わしが、わしが‥」と自己主張。どこ行ったんだいあの謙虚さは、と。過ぎた昔が懐かしいぞい。

 

先日、ネット検索で相撲茶屋(国技館)常陸山の孫の市毛弘子さん悲報の記事を見つけて愕然とした。84歳で去年亡くなっていたとは・・・弘子さんの母、市毛睦子さんの97歳での悲報は2年前に見つけて知ってはいたが弘子さんは後を引き継いでやってるとの記事だったので。あれから55年か、何かお返しをと思いながらまたしても不義理をしてしまったか、と。東京在中の折にはお世話になりながらも、歌手の夢破れて逃げるように東京を後にした思い出がよみがえる。いろいろと大変お世話になったという印象が強く残っていて偉くなった姿を見てもらいたかったという夢は霧散霧消してしまったかと残念である。

 

それにしてもまさか私が株や投資を生活の糧にするようになろうとは思いもしなかった。株や投資でそこそこ収入を得ることができようとは、実にありがたい。全く期待してなかっただけにこのような収入源を得て僥倖である。貯金を食いつぶして生活することを考えていただけに。定期預金から投資信託そして株の投資、2年前から始めた株の投資、株の売買での収入より投信と同じく分配金に似た、配当金目当てで始めたのだが、いやいやどうして配当金のありがたさもさることながら株売却での収益、利益確定のありがたさだ。

 

仕事をやめたら収入はないと思っていたのだが、わからんものだこんな世界があったとは。友人、知人が株で損してやめたと言う話は聞いてはいたがこういう世界だったか。