第2編 第1章  生命原理について  第1節 ~

 

第 1 節 

 

 お世話になった方々にお返しをしなくては、と思ってやってきたものの、そのお返しができたかどうか定かではない。

 

 お返ししようにも若いころは先立つものがなく、そのうちそのうちと思っている間に年月が過ぎてしまった。

 

 その間に亡くなった方々もあるようで、いまさらいかんともしがたい状況である。

 

 人生思うようにならず、耐えて耐えてやってはきたものの、やっと念願かなって思いもよらない形で、お返しのできそうな方向に向かって進み始めたようである。

 

第 2 節

 

 「地獄の沙汰も金しだい。」とはよく言ったもので、お返ししようにも金がなければどうしようもない。

 人に世話になりながらお返しをしない、できない人間は恩知らずと言われてしまう、それが世間というものだ。

 

 「知識は金なり。」とか、あのカントですら言っている。

 

 「この一切の物(財貨)の中には、学問でさえも、それが他人に無料で教えられないものであるかぎり、含まれている。」 

                        イマヌエル・カント(人倫の形而上学)

 

第 3 節

 

 そこで独学ながらも、前世からもちこんだ知識に現世でつかみ取った知識を加味して、民法の原理やら、生命原理やらという題材を利用して少しずつ発表していきたい。

 

 生まれながらの「物書き」だったのかと気づいてから、その機会をひた隠しにして待っていた。まだ柿の実は青いぞと言いきかせながら。

 

 生命原理についてはもとより、人生論やら世間知やら、いろいろと織り交ぜカントを研究して獲得した哲学的知識を生かし、わかりやすく論述していくつもりである。

 

 

 「ある人が生まれながらに持っているもの、すなわち前世という別の世界から携えてきて、他の人びとよりすぐれている点は、他からの賜り物ではなくて、前世で行った自分自身の業績の結実にほかならぬからである。」

                  

                    アルトゥール・ショーペンハウエル (哲学小品集IV)

 

第 4 節

 

 生命原理というからには「秘密の教え」と言われる、次のような真理を期待して差し支えない、まさに「ウパニシャッド」である。

 

 「われわれが突如として現にこの世にあるということに、われわれは驚く。というのは、何万年何億年をつうじて、いまだかつて存在しなかったのに、つかのまの時がたてば、また何万年も何億年も存在しなくなってしまうからだ。 ━ それは絶対におかしい、とわれわれの心は言う。」

                    アルトゥール・ショーペンハウエル (哲学小品集IV)

 

 そして次のような言葉も肝に銘じておくべきであろう。

 

 「そこで日常の会話などで、なんでも知りたがっているくせに少しも勉強する気のない例の多くの連中のひとりから、死後の生命のことを訊かれたら『きみは、死んだら、きみが生まれるまえにあったところのものになるだろう』と答えるのが、たぶん最も適切で、さしあたり最も正しい答えであろう。

                    アルトゥール・ショーペンハウエル (哲学小品集IV)

 

第 5 節

 

  リフテンベルグもその『わが性格』のなかで「わたしは、生まれるより以前に死んだことがあるという考えから脱することができない」と言っている。

 

これも アルトゥール・ショーペンハウエル全集にでてくる言葉である。リフテンベルグとはドイツの物理学者であり、トルストイの論文にもでてくる人物でもある。

 

 これを証明することは可能であるのか、われわれの認識能力はどのように対応するのであろうか。

 

第 6 節

 

 余談ながらカントについて少し語っておきたい。

 

 私が20歳の頃、トルストイの「人生論」を読破し、30歳前でルソーの「社会契約論」を読みこなしたとき、再度カントの論文を手にしたのだが、1ページも進まなかった記憶がある。

 

 そもそも何を書いている本なのだこれは、序文からこれかい。内容はもとより、単語そのものの意味がわからないのだ。それこそポーの小説「黄金虫」の羊皮紙に書かれた謎の文字そのものであった。

 

こうした行為はその後20年続くのだが、人間というもの努力はしてみるものである。まるでもつれた糸がひとつひとつほどけていくように、論文の謎ときは解明の方向に向かったのである。

 

 その論文の題名は「純粋理性批判」であった。わけのわからない本もあるものだ、何を書いているのかさっぱりわからん。

 

 しかし私は、これを読みこなさなければいけない特別の事情ができたのである。この土壇場に追い詰められた出来事が解明の道につながった。

 

 今思うにこの論文を読みこなせる人間は、人類史上、そう何人もいなかったのではないかと。これはある分野における研究が、いまだ解明されていないという事実によって簡単に証明できるからだ。

 

 そしてこの論文の解明は、単なる序章に過ぎなかった

 

第 7 節

 

 私が若いころに魅力を感じていた哲学者がいた。いや、今でも感銘を受けてはいるが、それはドイツの哲学者ショーペンハウエルである。

 当時カントとは比較にならないほど、わかりやすかったし、その哲学者然とした風貌がまた魅力的だった。

 

 しかしわからないものである。カントの哲学の凄さがわかってくると、その哲学の本質的な面において、ショーペンハウエルは色あせて見えるから不思議なものである。

 

 ショーペンハウエルはカント哲学の研究において、解明する事案が生じたときに重要とする学者の5人の中に入るという文献を見たことがある。

 

 ショーペンハウエルの実力を知るには、彼の書いた「カント哲学の批判」を一読すれば十分である。

 

第 8 節

 

 それでは、ショーペンハウエルの「カント哲学の批判」を見てみよう。

 

 偉大な精神の持ち主の著作の場合、その価値をすみずみまではっきりと説き明かすよりも、もろもろの欠点や誤謬を指摘することのほうがはるかにたやすい。

 

 という文章で始まるこの論文は、カントの法理論について次のように書いている。

 

 法理論はカントの最晩年の著作のひとつであり、きわめて内容のとぼしいものであるからわたしはそれを全面的に非とするのではあるが、それに対する論駁は不必要だと思う。

 なぜならこの法理論は、この偉大な人物の著作というわけではなく、平凡なこの世の人間の作りだしたものということになるやいなや、それ自身の内容のとぼしさのために自然に死滅するにちがいないからである。

 

 実を言うと、カントの法理論に関するショーペンハウエルの批判は、まったく的外れである。ショーペンハウエルの二元論は、けっきょくカントの哲学を読みこなせなかったということになる。それはショーペンハウエル流にカントを哲学していたというべきである。

 カントの哲学は二元論ではない。とどのつまりこれが基本的にカント哲学とショーペンハウエルの哲学の相違を明白にした。

 

 デカルト、カント、ショーペンハウエルといわれて久しいが、やはりカントの前にカントなく、カントの後にカントなしという俚諺のほうが正しい。

 

第 9 節

 

 カントの哲学は、けたはずれのレベルの高さである。人類史上このような哲学はかつて存在しなかった。なんといってもその難解きわまる哲学用語、まるで哲学用語とは論敵に反論させないために、いやその論駁に耐えんがために考案されたのではないかと疑ってかかりたくなるような代物だからである。

 

 しかし謎のような哲学用語は、深淵と確信に裏打ちされた高度な哲学力によって生み出されたものなのである。

 

 そしてカントの凄さは、ショーペンハウエルが批判したまさに法理論にあるからだ。いわばカントの法理論の凄さは、逆に彼の三大批判書の凄さを証明することになった。

 

 なぜならカントの法理論は、まさに三大批判書の哲学を用いて解明されているからである。しかもそれはこれまで法学者の誰もがなしえなかったことなのである。

 

 人類史上において民法の原理を発見した学者は一人もいない。しかしカントは自ら解明した法理論でその道の存在を証明し、・・・を解明したのである。

 

第 10 節

 

 さて、生命原理について語るうえはその論述は、それなりの哲学力を要し、嘘はったりのないものでなければならない。

 

 そんじょそこらのへぼ学者と同じであってはならないからだ。たとえば要件事実不要論とかをとなえる法学者がいるらしいが、お話にならないレベルである。司法研修所の要件事実教育をコケにするものであり、要件事実の重要さの意味をまるでわかっていない。

 

 弁護士でさえ要件事実の意味を解ってないと言われようものなら、名誉棄損じゃと語気を強めるというのに.。法学者として恥知らずな暴言を口にするとは、いやはや無知というのは恐ろしいものだ。

 

 世の中というもの、いつの時代にもこのような人物が出てくるもので、悪運強く取り巻きでもできようものなら一世を風靡することになったりして、こういう流れは誰にも止めようがないというもの、世間の評価と言えど常に正しい評価が下されるとは限らない一例となる。

 

第 11 節

 

 前世の記憶というものは、現世を生き抜いていくためには、ほとんど役に立たないということを知るべきである。

 むしろ厳しい現世を戦い抜いて生きていくためには、弊害となると知るべきである。過去の記憶や栄光はなんの手助けにならないばかりか、行く手を阻む障害物である。

 だからこそ年月とともに過去の記憶は忘却の道をたどるのだ。

 

 「自然は無駄なことはしない」 (アリストテレス)

 

 不必要な記憶は自然と消え去り、必要な記憶だけが生き残る。現世で新しい知識を獲得し、生きていく知恵を学ぶべし。

 人生は長くはない、あまりにも短い。それ故ギリシャ人も言っている。

 

     「芸術は長く人生は短し」   ヒポクラテス

 

そしてまたカントも次のように言っている。

 

「人が、自分は本来いかに生く可きであったかということを覚り始めると、その時にはもう死なねばならぬというのは、いかにも残念である。」と言ったギリシャの哲人の嘆きは、必ずしもまったく故なしとしないのである。

                      イマヌエル・カント (人類の歴史の臆測的起源)

 

第 12 節

 

 この章を終わるにあたり、箴言を綴っておきたい。

 

 「戦いに打ち勝つには、二つの方法があることを知らなくてはならない。その一つは法律によるものであり、他は力によるものである。

 前者は人間本来のものであり、後者は本来野獣のものである。だが多くの場合、最初のものだけでは不十分であって、後者の助けを求めなくてはならない。」

 

                               マキャヴェリ  (君主論)

 

 

 「自分の生存はこの現在の生命だけに限られていると思っている人は、自分を生命をあたえられた無と見なしているのだ。三十年前には彼は無であった。そして三十年後には、彼はふたたび無になるわけなのだ。」

             

               アルトゥール・ショーペンハウエル (哲学小品集Ⅳ)

 

 

 

 ( 第 1 節 ~ 第 12 節 終了 )