四年前の今日、Facebookにこんな事を書いていました。
偉そうな事かいてます。
私自身そんな出来た人間じゃないけれど、こうありたいなと思っている事は確かです。
が、なかなかね。
長文ですが、お時間あれば読んでみてください。
コロナでギスギスした世の中ですけど、思いやりを大切にしたいなと思います。

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おはようございます。 
今朝、ネットがご縁でネットで仲良くさせて頂いている友人からLINEがきて、私の痛みに比べたら自分の悩みや不満は小さなものだ…と言うような内容でした。私は、「辛さや痛みは、人それぞれであって、貴方が辛い痛いと思えばそれは辛くて痛いんです。」という内容の返信✉↩をしました。 
これは、私が常々思っていることです。他人と比較して、自分も頑張ろうと思ったり、こんな自分はダメな人間だと思ったり、私にも正直あります。でも、自分の物差しだけで測ってはいけないって、戒めてもいます。痛みだらけの自分と向き合う時に、それをしてしまうとどうにもならない気持ちに追い込まれてしまったり、他人の痛みを感じられない人間になってしまいそうだからです。一人一人の人間は、全く違ったそれぞれの精子と卵子から形成され、それぞれの違った環境の中で成長して今此所に生きているのです。 
金子みすゞさんの「みんな ちがって みんな いい」 
子どもが駆けっこしていて、二人の子どもが転んでケガをして、一人は痛みを我慢して最後まで走りぬき、一人はその場で泣き出し座り込んでしまった。走りぬいた子どもは、偉かったねって誉められて、泣いて座り込んでしまった子は、走りぬいた子と比べられて泣くじゃないと促される。座り込んで泣いてしまった子は悪いんだろうか?その子にとって、転んでケガをしたことは痛くてその気持ちがいっぱいで走れなかったのかもしれない。比べて良い悪いを判断するのではなく、その行為にあるその根本の気持ちをみてあげる。痛くて走れなかったことを認めてあげる気持ちが必要なのかな?って…そんな事を朝から考えてしまったわたしです。 
辛い時は、まず自分がその辛さと向き合うのだから、それをまず受けとめて、助けを求める事は悪い事じゃない。
 震災の被災者も同じ。被害の大きさを比べて云々ではなく、誰もが恐怖と不安を抱えて、今も生きていることでしょう。大事なのは、その表面だけでない部分を思いやってあげること。
 偉そうに書きましたが、それぞれ違った価値観があることを認めて、思いやる気持ちを大切にしたいなと思います。
 喜怒哀楽大切にして生きて生きたいな。 
 長文すみませんでした。 

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