日本書紀の「日本」(ヤマト)や古事記の「大和」(ヤマト)とは鳥取県中部の「倭」(ヤマト)である。


1 古事記・朝日のただ射す国・において「ニニギ命が言うには『この地は韓国を望み、韓国からの船が笠沙之御前を巻くように通る。朝日のまともに射す国、夕日の照り輝く国である。こここそは吉相の地である。』とある。
笠沙之御前や葦原中津国は鳥取県中部(倭国)にあった。

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天孫降臨の頃(紀元前200年頃)の海面は今より4m高かった。


2 日本書紀・神武天皇・橿原即位・において「神武天皇の御巡幸があった。掖上の嗛間の丘に登られ国のかたちを望見していわれるのに、『なんと素晴らしい国を得たことだ。狭い国ではあるけれども、蜻蛉がトネメして(交尾して)いるように、山々が連なり囲んでいる国だなあ』と。これによって始めて秋津洲の名ができた。
昔、伊弉諾尊がこの国を名づけて『日本(ヤマト)は心安らぐ国、良い武器が沢山ある国、勝れていてよく整った国』といわれた。
また大己貴大神は名づけて『玉牆の内つ国』といわれた。」とある。

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正面は北栄町島(室秋津島)

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中央は室秋津島。神武天皇は葛城掖上の丘に来られた。


3 私見
 大己貴大神と神武天皇の「国」とは葦原中津国のことであり、伊弉諾尊の「国」とは倭国のことである。
「掖上」とあるのは第5代孝昭天皇の皇居のあった掖上池心宮(日本書紀)、葛城掖上宮(古事記)であり倉吉市穴沢に比定したが、そこの灘手神社のある丘ではないかと思われる。
 「秋津州」とは第6代孝安天皇の皇居のあった室秋津島宮(日本書紀)葛城室之秋津島宮(古事記)であり北栄町大島に比定したが、どちらも天孫が降臨した葦原中津国にある。 
 伊弉諾尊は伊弉冉尊に葦原中津国を一緒に造ろうと言った。しかし、完成しなかった。「日本」と「良い武器が沢山ある国」というのは、後の藤原氏による改ざんである。「日本」とは「倭」とあったのを書き換えたものである。また、倉吉市大原の石上神宮から奪った沢山の武器が良かったので「良い武器が沢山ある国」を挿入した。倉吉の「倉」は石上神宮のことであり「吉」とは倉に良い武器があったからである。打吹天女伝説と同じく藤原氏が命名したものと思われる。
 大己貴大神(大国主命)は伊弉諾尊が成しえなかった葦原中津国の国づくりを完成させ、「玉牆の内津国」と言った。


4 やまとは くにのまほろば たたなづく あおがき やまごもれる やまとし うるわし

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葛城山(蜘ヶ家山)から東南方向を望む。手前は天香具山(土下山)。
倭健命はこの景色を思い浮かべて、歌を詠まれた。