いつもありがとうございます。
わたしは、10歳で将棋を覚えて38歳の今まで将棋を通してエゴと向き合ってきました。
将棋は今、二段の実力ですが、初段あたりから面白さが理解できてくる、と言われています。
面白さとは、戦法を覚えて理解し実践で試すことだけでなく、対人特有の駆け引きや対話、信頼、お互いの価値観や考え方などが1手、1手に表現されていることです。
特に、将棋って面白いな、と感じる部分は、考え方や価値観が異なる者同士が会話ではなく対話を通して信頼関係ができてくることです。
会話には、あまり目的はないと思いますが、対話となるといろいろと意識しないと成り立ちませんし、ときには創造が発生します。
例えば、将棋の道理的、論理的、常識的にはこう指したら、こう返すだろう、と予想していたのに全く意味がわからないような手を返されたり、今までの流れとはまったく違う手が飛んできたり、今まではお互いに最善手を指し続けていい感じで進んでいたのに、突然、相手から怒りのエネルギーを感じたり(笑)したときに、いったん、立ち止まって自身が指したい手を指すのではなく、相手の要望を聴く、対応する、ということを意識します。
将棋は、感謝の気持ちが伝わらないと内容的にお互い満足できる将棋は成り立たないような気がします。
お互い、AIではなく人生経験や価値観が異なる人間同士なので、どうしても頭で考えると意味が分からないような手はでてきますが、エネルギーでなんとなく感じていることなどわかるものです。
とくに、わたしなんかはエネルギーに敏感な方なので、変化にすぐ気づき勝手にうろたえてビクビクしていたときもありますが、今は意識的にどっしりかまえるようにしてます。
その方が、経験的にも自身と繋がれて自身をちゃんと表現できますし、自身のことがより好きになれますが、それは将棋の経験が豊富だからかもしれません。
自身らしく指していると、相手と同じ土俵でたたかっている、という感覚が減っていき、より意識を相手ではなく自身に向けることができるようになりつつあります。
それも、アセンションという将棋とは一見無関係そうな人生の大目的がいつも意識にあるからだと感じます。
アセンション、つまり、エゴと本来の神である自身との統合を魂?かハイアーセルフかわかりませんが、したがっている気がしますので、自身らしいな、と感じる手を感覚的に指すごとになんとなく調和が成立している気がします。
自身らしさとは、いまだによくわかりませんが、自信をもって動ているときや正しい手ではなく楽しい手を選んでいるとき、そこにエゴの争いの波動が入り込む余地がないような気がします。
この感覚が、自分軸と呼ばれる感覚なのかもしれません。
自身が楽しいと感じる手は、相手とは違うかもしれませんが、楽しいというエネルギーや気持ちは発していてそれは伝わるものです。
その楽しさは、静かな楽しさですが、将棋や人間には無限の可能性がある、と感じる感覚に通じるものがある気がします。
将棋の世界の集合意識や無意識は、まだ、エゴで満ちていますが、そう感じるのはわたし自身がエゴで満ちているからかもしれません。
エゴを完全に滅却できる日がくるまで、意識することや、やることはまだたくさんありそうですが、静かなワクワクを感じています。
感覚は、おそらく唯一無二なので本当に大事にしたいと感じます。
最後に、生かされていること、学べるチャンス、楽しめるチャンスがあることに感謝したいと思います。
生かしていただいてありがとうございます。