「榮立寺龍神の杜」村井信照のブログ

「榮立寺龍神の杜」村井信照のブログ

心地よさと感動が伝わり、人と人が繋がり広がってゆく杜(もり)。
キーワードは「統合の思想」「龍神」「確かさ」「からだ」「こころ」「気」「癒し」「食」「農」・・・。
日々のスナップと気づきを伝えてまいります。

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仏教では決定のことを「けつじょう」と読みますが、これは揺るぎない確信に至ったこころの状態のことをいいます。
病気になりたくない、病気を治してほしい,,,などという気持ちから仏様や神様の力にすがるのは信仰とは言わない。これは単なる我欲です。
信仰が目指すのは、病気や不慮のトラブルにあっても、その信じるものが支えとなって、こころが動揺しないこと、心配や不安に惑わされないことです。さらには、そのマイナスの状況を積極的に受け入れることでプラスに転じることです。
信じるものの力によって、そうすることができると確信する。それが「決定信」です。
日々に、己のこころを見つめ、決定信を目指したいですね。
最近なにかと内田樹先生の著作から学ばせていただくことが多いのですが、イデオロギーについての記述があって、心にクサビを打たれたような気がして、自分自身を厳しく戒めたいと思ったので、ここに書き留めておきます。

ーー思想を語るものは「このような事を語るのはさしあたり私だけであり、私が語るのを止めたら、それは私とともに消える。私が語り続けているうちに、いずれ私の考えを受け容れ、理解し、それに同期して思考する読者たちが出現してくれるであろう。そのとき、私の考えは私念であることを止めて公共性を獲得する」と考える。
 イデオロギーを語るものは「私と同じ事を考えている人間は無数におり、私が語るのを止めても誰かが私に代って同じ事を語るであろう。だから、私の言葉が粗雑で、非論理的で、挙証不足で、今これを読んでいる読者を納得させられなくても、何ら問題はない」と考える。
ーーイデオロギーとは別にかたちがあるものではない。政治的に正しくないコンテンツを含むからイデオロギーであるのではない。そうではなくて、同時代の、自分と価値観や美意識を共有する、「身内」の読者だけを想定し、おのれの「外部」に対して発信する気のないテクストをイデオロギーと呼ぶのである。
ーー「私と同意見のたくさんの人々」を想定していなければ、人間は断定的になったり、冷笑的になったり、非論理的になったりすることはできない。
ーー彼らは軽々と、寸鉄人を刺すような断定で切り捨てる。
ーーそれは「私が言わなくても、同じことを言う人間がいくらもいる」と思っているからである。私のこの断定に腹を立てる人間がいたとしても、この断定は「先取りされた真理」であるので、いずれ常識に登録され、いずれみんなが私の断定に唱和するようになる。だから、私はいくら断定的になってもよいのだ、と。そう思っているからである。
 けれども、気をつけた方がいい。自分の個人的判断が「巨大な集団的合意」の一つの予兆にすぎないと思っている人間は、自分が多数派の一員であることを前提にしている。でも多数派のひとりであるということが意味するのは「私の替えはいくらでもいる」ということである。「この言葉を書くのは私でなくてもよい」ということである。それは「私には特段存在しなければならない理由はない」ということである。
 多数の同意を先取りした断定は「私は存在しなくてもいい」という自己呪咀をコロラリーとして導いてしまう。
 私がイデオロギーはよくないよというのは、それが政治的に正しくないからではなく(正しくないのもよくはないが)、イデオロギーはそれで身を養う人たちをいずれ食い殺すからである。
 批評を語る人たちは「この言葉は私が言わなければ、誰によっても言われることがなさそうな言葉であるかどうか」を自己点検しておく方がいいと思う。

(内田樹『街場の読書論』P395~)
如是我聞…。
法華経の信仰で大事なことは、たとえ何かの不運や病気と出逢っても、そのマイナスをプラスに転換し、「災い転じて福となす」ことができる妙法の力を確信することです。
信仰をされる方の中には、熱心に信仰すればするほど、その御利益を頂かれる反面、「もっと信心が足りないのではないか、自分は何も分かっていないのではないか」と不安や不足感を感じる方もあります。せっかく信仰していながら、どこまでいっても安心できないのには、実は秘密があります。それは、この現実の世界には「聖なる矛盾」ともいえる法則があるのです。
例えば、「正しいことを行えば敵が現れる」「努力しようとすると煩悩が邪魔をする」「強くなりたいと思うと、弱さが見えてくる」など。これは、「プラスに対するマイナス」「善に対する悪」など二極が表裏一体の関係になっているからです。世の中に存在するものは、この二極の作用と反作用の関係が本質です。私たちの心も同じなのです。
そこで、私たちが根本的に救われるには、心の中に生まれる「マイナス」からプラスを生み出す必要があります。マイナスがないとプラスが生み出せないのです。
「毒薬を変じて良薬となす」というのが「妙法」の力です。まずは、マイナス要因を素直に受け入れることです。弱さを受け入れることで強さが生まれます。迷う自分を認めることで悟りが生まれます。自分の無知を知ることが本当の知性となるのです。「聖なる矛盾」は私たちの存在の秘密であり、魂を救う鍵です。
 
来る1月11日午前10時より、「榮立寺龍神の杜」今年最初の月例祭を行います。

そこで、あらためて「龍神の杜」についてご紹介します。
榮立寺本堂のすぐ裏手に、樹齢200年を越えると思われるクスノキの大木とスギの木の森があります。
平成21年2月16日、阿蘇小国町蓮台寺の御前様、永石前昌僧正のお導きによって、この森を御神体とする、「華之宮龍神」「一之宮龍神」「久之宮龍神」という3柱の龍神様が勧請され、ご鎮座されました。
古代より、この地が法華経の道場が建立されるべき場所であるとしてご守護されてきたといわれております。
不思議なことに、その翌年、お隣の市房山神宮里宮神社にチェーンソーアートの世界チャンピオンである城所ケイジさんが来訪され、昇り龍を彫刻して「導きの龍神」として奉納されました。それから里宮神社は龍神様のお宮として知られるようになりましたが、偶然にも同じ時期に龍神様とご縁があったことは、この地にはよほどの宿縁があったのではないかと感じます。
榮立寺と里宮神社の両方にお参りをされると、この一帯が市房山から連なる龍脈の末端に当たる“パワースポット”であることを感じ取られる方もおられるのではないでしょうか。
榮立寺龍神の杜は毎月11日を縁日として例祭を行っています。(3月、7月、10月は大祭)
龍神様の力強い導き、ご守護を体験された方も何人もおられ、徐々にご縁を結ばれる方も増えてきました。
榮立寺龍神の杜とは、このご縁の輪を繋ぎ、人として高い価値観を養い、自分と社会環境の最適な関係を築くことで、まことの幸せを実現することを目的とする、プラットホームの場としたいと考えています。
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