Midnight Willows 神風特攻隊「第3龍虎隊」 | 70 racing project

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T.YOSHIKAWA Official blog

今から76年前の1945年7月29日、神風特別攻撃隊「第3龍虎隊」の攻撃を受けたアメリカ軍の艦船が沈没しました
それが太平洋戦争で日本軍が行った最後の特攻と言われています


この部隊は九三中練と呼ばれた木製・布製の小さな複葉練習機に可能な限りの爆弾を積んで最後の特攻攻撃をするための部隊でした
特攻機や航空燃料の不足を補うため九三式中間練習機(記号K5Y/連合軍コードネームWillow)がアルコール燃料でも稼動可能なことから機体全体を濃緑色で塗装した上に後席に増槽としてドラム缶を装着し機体強度とエンジン推力の限界に近い250kg爆弾を積み込んでの特攻に駆り出されることになったのです
芙蓉部隊指揮官美濃部正少佐は木更津基地で開催されたとされる連合艦隊の会議において本機のような練習機まで特攻に駆り出そうとする軍の方針に反対したと主張していますが
フィリピンでの決戦に敗れて大量の作戦機を喪失していた日本は戦力化できるものは何でもつぎ込まざるを得ない状況に追い込まれていました
1944年11月、沖縄海軍航空隊で偵察や対潜哨戒任務を行っていた搭乗員が石垣島に派遣されて「石垣島派遣隊」として編成されました
1945年4月には連合軍が沖縄に進攻してきて沖縄戦が開始されると、翌1945年5月「石垣島派遣隊」は台湾の新竹基地に移動し第一三二海軍航空隊に編入されることになりましたが、その際に全搭乗員が志願の有無にかかわらず特攻隊員に任じられたのです
それも今まで操縦してきた水上偵察機や艦上爆撃機ではない複葉練習機の本機での特攻出撃と聞かされて搭乗員たちは驚きを隠せなかったといいます
特攻隊員達は台湾の虎尾基地に移動して連日連夜の猛訓練に励みました
元々実戦部隊から編成された「石垣島派遣隊」の搭乗員の練度は当時の日本軍航空兵の平均から見るとかなり高かったと思われ小隊長の下士官は操縦年数2年で飛行時間が800時間程度、
もっとも若くて未熟な搭乗員でも300時間はゆうに超えていたので約100時間の飛行時間で出撃する特攻隊員も多い中で比較的熟練した搭乗員が揃っていたと言えます
その搭乗員らは劣速の本機での特攻は夜間の出撃が必須で、なおかつレーダーに捉えられない海面すれすれの高度5mで飛行しなければならなかったので厳しい訓練が繰り返され
当初は「暗い夜道を1人でとぼとぼと歩くような心細さ」で「すべてが不信と不安で一杯となり、訓練半ばで着陸することもあった」ようでしたが、そんな搭乗員達もやがて完全に夜間の超低空飛行ができるようになりました
零式艦上戦闘機の最新型である零戦52型丙型や急降下爆撃機彗星一二型の夜間戦闘機型「戊型」といった新鋭機種を優先的に配備されて燃料節約や未熟な搭乗員の航法の負担を軽減するために
飛行巡航高度を飛行が容易な3,000m~4,000mとして特に有効なレーダー対策も行っていなかった芙蓉部隊のような第1線部隊とは与えられた機体や置かれた状況が違いすぎるため、過用な厳しい訓練を課す必要がありました
虎尾基地で訓練を受けている搭乗員で編成される特攻隊は基地の名前から「龍虎隊」と名付けられました
龍虎隊の隊員のなかには「石垣島派遣隊」の搭乗員の他にも虎尾基地の零戦が枯渇したためやむなく本機で夜間爆撃訓練を受けていた非常に操縦技術が高い精鋭や
歴戦の零戦操縦士の角田和男少尉によれば熟練搭乗員のなかでも不時着による機体破損回数の多い搭乗員や出撃時何らかの理由で途中引き返した回数の多い搭乗員も懲罰的に選ばれていたといいます
先着組の「龍虎隊」はまず1945年5月20日に「第1龍虎隊」の本機8機、6月9日には「第2龍虎隊」の本機8機が台湾から出撃しましたが、いずれも天候等の問題もあって宮古島、石垣島、与那国島に不時着し攻撃に失敗しています
2度の失敗でやはり練習機の本機に250kgの爆弾を搭載して長時間飛行するのは無理があるのでは?と判断されたため、次回の作戦は宮古島に前進して飛行距離を短縮することになりました
「石垣島派遣隊」のときから搭乗員を率いてきた三村弘上飛曹を指揮官とした8機の本機が宮古島に前進し1945年7月29日に「第3龍虎隊」として出撃が命じられました
宮古島飛行場は滑走路が短く低速の上250kg爆弾搭載の過大な機体重量という悪条件のなかで猛訓練で鍛えられた特攻隊員らが操縦する本機は次々と離陸し見送っている地上要員を感心させましたが、佐原正二郎一飛曹の機体だけが車輪がパンクして離陸ができませんでした
7機となった「第3龍虎隊」でしたが、そのうち隊長の三村上飛曹と吉田節雄一飛曹の機体がエンジントラブルに見舞われて引き返し、吉田一飛曹の機体は飛行場までもたず近くの畑に不時着し、吉田一飛曹は重傷を負って再出撃できず、結果的に「第3龍虎隊」唯一の生存者となりました
残る5機は与えられた作戦を実行するべく漆黒の闇の中を海面すれすれの超低空で沖縄本島を目指します


翌29日午前0時31分、沖縄本島真西35マイルでレーダーピケット任務についていた「キャラハン」、「カッシン・ヤング」、「プリチェット」の3隻の駆逐艦は接近してくる1機の正体不明機を発見、
34分にキャラハンはその機を敵機と判断して砲撃を開始しましたがすでに200mの位置まで接近を許していました
こんな近距離まで本機が発見されなかったのは搭乗員が巧みな低空飛行で接近してきたことと、機体が木製や布製でありレーダーで探知困難だったためです
キャラハンのC.M.バーソルフ艦長は接近してくる敵機が零戦でも艦爆でもなく85ノットの低速で飛行する複葉機と知って驚きましたが、
その機は雨あられと浴びせられている対空砲火に全く損害を受けてないかのように右舷第3上部給弾室付近に激突し、搭載爆弾は甲板を貫通して機械室で爆発し機械室内にいた乗組員全員が戦死
また搭載されていた航空燃料で発生した猛烈な火災が弾薬庫に達するのはもう時間の問題と思われバーソルフ艦長は総員退艦を命じます
まもなく搭載機雷が爆発し次々と誘爆がはじまりました
沖縄戦当初から特攻機と戦ってきた「キャラハン」はこれが最後の任務で完了後にはようやく帰国できる予定でしたが、
それがかなうことなく火災による誘爆が連鎖するなかで士官1名、下士官兵46名が戦死、73名が負傷し、特攻機が突入した約2時間後の午前2時35分遂に艦尾から沈んでいきました
そしてキャラハンは第二次大戦で神風特攻隊が撃沈させた最後の艦船となりました
「キャラハン」が攻撃を受けた数時間後さらに2機の特攻機が現れます
その2機は沈み行く「キャラハン」の乗組員を救出作業中の「カッシン・ヤング」「プリチェット」の2隻に突入
2隻は特攻機に激しい対空砲火を浴びせましたが「キャラハン」に突入した1機のようにこれらの弾丸は特攻機に命中しているのですが全て貫通してしまい全く損害を与えていないかように見えます
その1機は「プリチェット」に命中しましたが角度が悪く斜めに激突したため大きな損傷を与えることなく海上に落下してしまいました
そしてもう1機は「カッシン・ヤング」に命中直前の30m距離で惜しくも対空砲火によって撃墜されてしまいました
しかしこの「第3龍虎隊」の攻撃はまだ終わらなかったのです
機体の故障とパンクで出撃できなかった指揮官の三村上飛曹と佐原一飛曹は翌7月30日宮古島からわずか2機で出撃、
そのなかの1機が奇しくも昨日「第3龍虎隊」と戦った後に、「キャラハン」の負傷した乗組員を病院船に運んだ後レーダーピケット任務に復帰した「カッシン・ヤング」「プリチェット」と接触したのです
またも巧みな低空飛行と木製・布製の機体によって2隻が特攻機を発見できたのは特攻機が一旦上昇後に突入のため急降下を開始した時でした
対空砲火は間に合わず特攻機は「カッシン・ヤング」後部の救助艇用のダビットに命中、艦は大破し27名が戦死41名が負傷するといった甚大な損害を被りました
図らずも前日戦友が討ち漏らした標的に突入した形となりました
残る1機も、対潜哨戒任務中の輸送駆逐艦ホラス・A・バスに低空飛行で接近、発見されたときには同艦の船楼に命中しそれをなぎ倒し1名の戦死者と15名の負傷者が生じました
2日渡った「第3龍虎隊」の攻撃で米軍は1隻の駆逐艦が沈没、1隻が大破、2隻が損傷し、4隻で75名の戦死者と129名の負傷者という損害を被ったのです
わずか7機の木製複葉機に痛撃を被った米軍は練習機での特攻を脅威と認識、効果が大きかった要因を以下のように分析し高速の新鋭機による特攻と同等以上の警戒を呼び掛けています
・木製や布製でありレーダーで探知できる距離が短い
・近接信管が作動しにくい(通常の機体なら半径100フィート(約30m)で作動するが、93式中間練習機では30フィート(約9m)でしか作動しない)
・対空火器のMk.IV20㎜機関砲はエンジンやタンクといった金属部分に命中しないと信管が作動せずに貫通してしまい効果が薄い(ただしボフォース40mm機関砲は木造部分や羽布張り部分でも有効であった)
・非常に機動性が高く巧みに操縦されていた
また本機より一足先に特攻機として実戦に投入されていた練習機白菊も戦果を挙げており、練習機の特攻投入を激しく批判したとされる美濃部率いる芙蓉部隊が沖縄の飛行場攻撃と並行してアメリカ軍の艦船攻撃を続けながら全く戦果を挙げることができなかったのとは対照的でした
アメリカ軍側は九三中練や同じ練習機の白菊や九九式艦上爆撃機(記号D3A/連合軍コードネームVal)の様に通常攻撃ではアメリカ軍艦艇を攻撃することすら困難になっていた固定脚等の旧式機が特攻では戦果を挙げていることを見て
「こうした戦術(特攻)は、複葉機やヴァル(九九式艦上爆撃機)のような固定脚の時代遅れの航空機でも作戦に使用できるという付随的な利点があった」と評価しています
本土決戦では本機を中心とした練習機も特攻機として投入される計画であり、陸海軍の練習機合計4,450機が特攻機用に改修されていました
陸上機、水上機合計5,591機が生産され、この内半数近くは日本飛行機製でしたが、製造機数の多さと練習機という任務から終戦時に残存していた機体数は海軍の機種の中では最も多かったのです
戦後インドネシア独立戦争にて九三式中間練習機はインドネシア共和国軍によって練習機等として広く使われました
だが、ほとんどはインドネシア旧宗主国のオランダ空軍による飛行場への爆撃により、1947年(昭和22年)までにはほぼ破壊されてしまいました
現在そのなかの1機がインドネシアのサトリアマンダラ博物館に保存されているようです

ここまではほとんどの人が知らない中でも僅かの興味がある方なら九三中練で決行された特攻の記録として調べれば知りえる範囲だと思います

当時は誰にも解らなかった九三中練のステルス性能や敵弾が貫通してしまい効かないのにも驚きでしたがもし彼らにそれを伝える事ができたならもっと違った気持ちで出撃できたことでしょう

実は彼らは7月27日夜に一度出撃しましたが全機エンジン不調で引き返しています

その際1機が着陸に失敗し尾輪を壊してしまいます

28日夜7機で出撃するも1機が離陸に失敗し6機の出撃となりますがそこでもまた4機が引き返し2機はそのまま突入

★(離陸に失敗した機は大破し搭乗員は重傷を負った為「第3龍虎隊」唯一の生き残りとなります

日付が変わった29日深夜に4機が再出撃するもまたもや1機が引き返し残り3機は第二波として突入

そして翌日の30日夜に尾輪の修理の終えた機と引き返した機の2機が再出撃し突入するという不思議な行動をとっています

★(離陸に失敗し大破した機から損傷を免れた尾輪を取り外し、尾輪を損傷した機を修理しています

まさに終戦17~8日前のいのちの遣り取りがここにあったのです

そして彼らの突入後すぐに「第4龍虎隊」が編成され、その中には「第3龍虎隊」生き残りの吉田一飛曹も含まれていたようです

「第4龍虎隊」の出撃は8月15日でしたが玉音放送のため中止されそのまま終戦となりました

人は例外なく誰でもいつかは必ず死にます

この人生最大の儀式はいつどのような形で訪れるのかは誰にも解りません

同様にもしこの時代に生まれていなかったら彼らにも全く違う人生があったことでしょう

ただ逆に言えばこの時代でなければ出来なかった事もあります

私の叔父は彼らと同じように沖縄で戦死しています

そして私は勝手にですがその生まれ変わりだと信じて生きています

そんな私が感じるこの「第3龍虎隊」の各々面々の心の葛藤をまた次の機会に何らかの形で皆さんにお伝え出来ればと思っています

終戦の日の今日に私が少しだけ皆さんに伝えたかった事でした

でわまた

                  ※ブログ内で使用の九三中練の画像はネット上からお借りしています