私は1ヶ月ほど前、茨城県の水戸にある「茨城県立歴史館」へ行ってきました🚗

特別展「鹿島と香取」を見るためです。

リアルタイムです🤭

茨城県立歴史館は、大変 立派で展示も面白く、改めて 水戸の財力と歴史をまざまざと感じてきました😵




1階で 特別展を見終わった後、2階には 常設展がありました。

1階に比べ 空いていて、こちらも情報が盛りだくさんで、面白かったです👍💓


昭和の初期の生活を紹介するコーナーがあり、そこで小さなテレビに映像が映っていました。

周りを見渡すと 見学者は誰もいなくて、使用していい椅子が用意されていて、ちょうど 歩き疲れていたので、座ってテレビを見てみることにしました📺


そこには、静岡県の初島で伝えられている鹿島踊りの映像が映っていました。

歌の内容は『ミロクの船が着いた。御霊は鹿島のものだ』というものでした。

黄色の点が初島の場所です🏝




家に帰ってから、近くの 富戸で伝わる 鹿島踊りの歌詞を確認できたので、載せますね。


めでたいぞよ  富戸の浦

弥勒御船が 着いたぞよ


トモへには 伊勢と春日

中には 鹿島の大社



富戸に「みろく」の船が着いた。と歌っています。


随分離れた静岡に、鹿島踊りが伝わっていました。





鹿嶋市や神栖市にも「鹿島みろく」という 伝統芸能が近年まで盛んに行われています。

歌と踊りは、主に地域のおばあさん達によって伝えられ、現在市内では2~3地区が継承しているのみになっています。

 地区によって少しづつ歌詞が違うようで、大町地区のみろくでは

「ミロク様が海の向こうから船に乗って幸福を運んでくる

という信仰があり、地元の鹿島の神様を讃える内容が混ざり合った歌詞になっています。

 大町地区のみろく歌の歌詞の一部です。


世の中は萬劫末代 弥勒の船がつづいた


舳艫(じくろ)には伊勢と春日 

中には鹿島の御社 ありがたや

息栖お森は黄金社壇


 打つて輝く後には  清き神等  

前には女瓶男瓶 


あの御座船  香取は四十余の御社

音に聞くも尊しや 

一度は参り申すべく候よ


金三合撒かうよ 金三合は及びござらぬ 

米三合撒かうよ 何事も叶え給えや


常陸鹿島の神々様



舳艫※舳先 (へさき) と艫 (とも) 。船首と船尾。

地域によっては、踊りの歌詞を書き記すことは禁じられている場所もあります。

鹿島踊りは YouTubeで、動画でたくさん上がっていますので、ご興味ある方は ご覧になってみてください。

歌の歌詞から、海から みろくが届いて、それは鹿島か息栖にある、と理解しました(^_^;)



🚢遠い場所で伝わる 鹿島踊り


ネットで調べてみると、「鹿島踊り」は神奈川県南西部や静岡県東伊豆地方に伝わっていて、千葉県南房総地方に伝わる「みのこおどり」が歌詞・楽器などの共通点があるとされ、これはとされています。

千葉と静岡では離れているからです。

その謎を、江戸時代に鹿島信仰を広げるために町々を歩き、踊ったり 御札を頒布した集団「鹿島事触」から来ているのではないかと考えられていました。


「鹿島事触」の様子を描いた絵です。


(名古屋市博物館所蔵)


あれ?赤い丸の上りに、見覚えのあるマーク🤭それで3本。

「鹿嶋は、八咫烏です」と公言しているようなものです。
この絵からも、熊野と鹿嶋のつながりを確認出来ました。


🚢注目したポイント


🚢みろくは海から運ばれてきた

みろくは海から運ばれてきて、鹿島か息栖にあると考えます。鹿島みろくですから鹿島神宮の方が濃厚です。

東国三社の灯籠は、月と鹿でした。
月(熊野)から、みろくは、鹿島🦌に来た。と考えます。


🚢何事も叶え給えや

願いを叶えてもらう為に、一度でも参拝してごらん。と歌っています。

ミロクは願い事を叶えてくれるのでしょうか😍


🚢静岡や 神奈川で伝えられている

みろくは鹿島のもので、なぜ遠く離れた静岡や 神奈川で伝えられているのでしょう?

みろくを運ぶ船は、小舟ではなく、転覆の可能性が少ない 大きい しっかりとした船を作ったはずです🚢🌊

とすれば 乗船する人数も増えるわけで、

飲み水や食料の補給の為、港に寄る必要が出てくるので、富戸など所々寄りながらの移動 だったかもしれません🤔

私は船は和歌山から出発して、途中 静岡、 神奈川に寄り、鹿島に着いた🚢と考えます。


🛶なぜ船で移動したの?


大事な みろくが船によって運ばれたことが分かりました。

ここで一つ疑問が出てきます🙎❓

それほど大事ならば、なぜ陸で運ばなかったのでしょう?

船の場合 転覆する可能性があり、危険を伴います。この点を考えてみます。

熊野三山 は、八咫烏、 裏天皇の総本山です。なので みろくはこの場所にあるのが本来適切です。みろくは八咫烏 が西から運んできた 宝 だからです。

なぜ 移動したのでしょう。

千葉の上総 十二社は、創始が西暦807年です。
ということは、700年から800年の間に和歌山から千葉へ移動したと考えられます。

この頃の日本の状況は、

645年 大化の改新

701年 大宝律令の完成

710年 元明天皇が平城京に 遷都

718年 不比等らが養老律令を定める

729年 不比等の娘を皇后に立てる


⤴これだけでも着々と 藤原の世になっているのが分かります。
しかも 、奈良の下はすぐ和歌山。

和歌山は山で守られていますが、これ以上 藤原に勢力がついたら、裏天皇といっても攻め込まれる可能性があります。

その時、大事なみろくが奪われてしまいます。

別な場所に移したくても、荷台に乗せて 移動することはできません。

神からのお告げで陸を移動する時は、必ず担がなければいけないのです!

まず目立ちますし、藤原に抑えられたら 一巻の終わりです。

藤原の手が及ばない安全な場所に移動するには、地理的に船で移動するしかありません。

元々彼らは、船で熊野に着いています。
今回も 黒潮に乗って、船で移動することにしました。

と言っても 転覆したら、死後の世界で 先祖達にフルボッコにされるのが見えているので、相当念入りに準備したはずです。

転覆しても死んでも「絶対に箱(みろく)は守る」この強い覚悟で船出したはずです。

彼らにとって箱(みろく)は命であり、命に代えてでも絶対に守らなければいけないものです。

人類の宝ですから!!



その場所をですね。。私はブログに書こうとしている訳で…🥶

怖すぎるを、超えている…

「ここにあるぞ!」と触れ 回るのではなくて、

今までどんな思いで繋いできたのか、気持ちとか 歴史とか、少しでも理解したいです。

辛いなんて言葉じゃ表現できないんですけど、できることを精一杯します。



参考

鹿嶋市ホームページ