松蔭が栄太郎をどのように思っていたのか、語った言葉を書きます✐


🔸栄太郎は私(松蔭)が短慮ではなく、才が足らぬことを知っている。私を知っている者は 栄 太郎しかいない。
昔、周に伯牙(はくが)という琴の名人がいた。その妙技を本当に理解しているのは、鍾子期(しょうしき)という者だった。
だから鍾子期が死ぬと、伯牙は琴を破り「もう自分の琴を本当に聞いてくれるものがいなくなった」と嘆息したと言うが、栄太郎は鍾子期だ。

🔸高杉、久坂、栄太郎が私にとって良薬である。三人を「三秀」と呼んでいました。

🔸私が最も愛している人物は、岡部富太郎と栄太郎である。栄太郎はその才を愛している。岡部はその元気が鋭いところを愛している。だが、これらは自分に似た部分を愛しているのであり、それは自分の欠点でもある。

上記の言葉は、入江九一が書き記しています。入江はどんな時も松蔭の心を思いやっています。入江えらい👏

他の方の証言です。

🔸伊藤博文
私などとは比べ物にならない。
天下の奇才だった。

🔸品川弥二郎
稔麿が生きていたら総理大臣になっただろう。


周りの人も認める人物だったのですね🤔

だけど発言が具体的ではないので、どういう才能があったのかイメージしづらいです💦


一連の流れを見ていると、心優しい人物ということは分かります。

家族か藩(国)か、究極の選択を迫られ、家族の為に自分の想いや志を捨てようとしています。


杉家のように特別な思想を持っている家に生まれた松蔭は、栄太郎の辛い立場をどこまで理解していたのでしょう。

この時代と言うかそれまでも、だいたいどこの家も貧乏です。
命をリレーするのが精一杯で、それ以上を求めるのは酷です。

それでも中には、大変になることを理解して、息子の活動を応援した家がありました。

例えば龍馬の家は、龍馬が脱藩した時にお栄姉さんは自害しているし、乙女姉さんも離縁しています。

要するに周辺に「ここまでしたから許してください」そう言っているわけです。

こういう家族の犠牲があって、幕末の志士達の活躍があります。


当時の状況が分かるのは「文字」が残ってるからで、逆に、どれほど大変だったのか、文字に残してもらわないとわかりません。

普通のお宅は、自分の気持ちを文字にして残しません。


脱藩をする、息子が死ぬ。それが家族にとってどれほどのダメージなのか、想像することは難しいです。


だけど声にならない声を想像したり、汲み取ったりすることが、大事だと思うし、そういう人たちの上に今の生活が成り立っていることを忘れないようにしたいです。



⭐別れの時


入獄から2ヶ月、栄太郎からの連絡はありません。塾生に栄太郎の様子を聞くと「近頃はまるで魂が抜けている」と返ってきて、心配になり手紙を書いても、やはり栄太郎からの返信はありません。

全く何の反応もない栄太郎に、松蔭は怒り狂います。


お前は心が死んだんだ。
こんな惨めなことはないな。
お前の心が死んだのなら「心死」を弔い、香を焚いて、お前のために泣いてやった。


「お前は心が死んだらしいから、お前の葬式をあげてやったよ」とわざわざ手紙に書いて送ったのです。

そんな手紙を送って、ハッと我に返って、翌々日にもう一度手紙を送っています。


心が死んだということは撤回する。
俺とお前は豊臣秀吉と加藤清正のようだ。
栄太郎は清正よりも上ではないかと思っている。


と急いで撤回する手紙を送っても、栄太郎からの返事はありません。それどころか、かつて松蔭が与えた「名字説」と「両秀録跋」を送り返してきました。

これは縁を切りたいということです。。

すると松蔭は泣きながら受け取りを拒否。


栄太郎が絶交するのは構わないが、自分からは絶交はできない。
今でも尊敬の念を抱いていると告げます。


この時点で、いい師でありたいとか、いい義兄でありたいとか、かなぐり捨てています。

「栄太郎を失うかもしれない」

この恐怖に七転八倒する裸の松蔭がいます。。


松蔭は後に「只々天地間不朽の人になってくれたら、自分の流儀に引き付ける気はない」とやはり入江に伝えています😅


松蔭が栄太郎に宛てた手紙の内容は、現存していません。

松蔭が文稿の中に残した言葉が残っていた為、内容が分かっています。

栄太郎は、松蔭と共に死ぬ覚悟まで出来ていました。

師の叫びにも似た手紙を、どんな気持ちで処分し続けたのでしょう…




そんな中、幕府は松蔭を江戸に送るよう命じてきました。

1859年5月25日、家族や門下生と別盃を交わし、松蔭は籠に乗り込み、旅立ちました。


その前日のことです。

栄太郎は家の北隣、大野家の娘タツを呼びます。
栄太郎は、このタツに

「吉田先生の所へ行くことができない」

と泣きながら話します。
もう塾生と共に、松蔭を見送ることができなくなっています。

タツはそれならばと、松蔭を乗せた籠が大野家の横を通るように、駕籠かきに頼んでやりました。

大野家の杉がきの穴から、松蔭に合わせることにしたのです。


籠が杉がきの脇を通った時、二人は数ヶ月ぶりに会うことができました。

松蔭も栄太郎も、ほろほろと涙を流しました。
松蔭は生姜漬けを一握り、籠から手を差し出して栄太郎に与えました。

籠はさっさと過ぎ去ってしまいました。

この話はタツの姉スミの子供・林茂香が語り残した話で、「松蔭先生と吉田稔麿」に紹介されています。


萩のはずれにある涙松で、小休止した松蔭が詠んだ歌です。


帰らじと思ひさだめし 旅なれば
ひとしほぬるる 涙松かな


もう萩に帰ってくることはできないと死罪を覚悟しています。


栄太郎がどんなに松蔭を拒否しても、松蔭には栄太郎の気持ちが分かっていたはずです。


だけど、萩を離れる最後に、栄太郎に会えて、松蔭の心は救われたと思いました。



参考資料

吉田稔麿 松陰の志を継いだ男
著 一坂太郎
Wikipedia
いくつかネットを見ました。