安楽死について

 安楽死に関して、考察すべき二種類の課題があります。一つは、自己の生を自らの意思で終わらせることが認められるかという問題であり、もう一つは、所謂「生きるに値しない命」を選別するということが許されるのかという問題です。

1、自分の命を自らの意思で絶つという自死行為は、自ら実行する場合は自殺、他人に依頼するときは安楽死となります。従ってまず、自殺・安楽死を問わず自ら死を望むという事が許されるのかということが問題となります。現在の社会では、一般には許されないものと考えますが、それは現代社会がキリスト教を基盤とする西欧文明によって成り立っているからです。しかし、日本の中世の例を出すまでもなく、自死を否定しない文化はいくらでもあります。この問題に対しては、何に対して許されるのか、乃至は許されないのかという問う必要があります。

  自殺・安楽死は社会集団において許されるのか問えば、それはつまり、個人の死が社会集団の維持・発展に益するかどうかという問題になります。当然、この判断は、その個人の社会集団における存在価値、及び社会集団が共有する価値観によって異なります。その人が社会・集団にとって有益で必要な存在であるなら、自死は社会の維持発展を阻害する可能性があるので悪です。また、自死そのものが社会の価値観に反するなら、社会の維持を阻害する恐れがあるので悪です。その存在が社会の維持発展を阻害するものであるなら、善となり得ます。実際、社会集団が十分な余力を持たない状況下では、自死は肯定されることがあります。壊滅の危機にある集団において、集団を助けるために自ら死を選ぶことは称賛され、英雄視されることすらあります。そうした社会では、自死を認める価値観が存在すると考えられます。

 自死が社会的に許されるかどうかについては、「死ぬ権利(自由)」というものが認められるかという問題になります。自らの命は自己に属するものであり、その扱いは自己の裁量に任されるべきだという考え方に基づくなら、認められるでしょう。命は「神のもの(神から与えられたもの)」と考えるキリスト教の社会では、自死は認められません。しかし現在の趨勢を見ると、その人が不冶の病、治癒の可能性のない傷害を負っている場合などには、許されると考えられているようです。実際、死ぬ恐怖や耐え難い痛みなどを「終わらせる」ために自殺、あるいは安楽死を望むことを、他人が非難することはできないでしょう。

 「死ぬ権利」という権利を、法的に認めるかどうかについては、現在の法体系の前提を考える必要があると思います。現在の法体系は、人が「より良く生きたい」という欲求を持っていることを前提としていると考えられます。そうした欲求を持つ人々の社会集団を維持するために、様々な権利を設定し法を整備しているのです。「死にたい」という欲求を持つ人の存在は、現在の法体系の考慮外にあります。従って現在の法体系には、「死ぬ権利」は設定されていません。

 

2、「生きるに値しない命」を選別し、「処理」することは許されるでしょうか。この問題も、社会集団の利益の立場から考えれば、先ほどと同じ結論に至ります。危機的状況にある社会集団において、その死が集団の存続に寄与するならば、許されると考えられるでしょう。過去においても「間引き」や「姥捨て」など、その事例には事欠きません。大災害時にトリアージによって治療の優先順位を決めること、つまり治療しないことで死に至らしめることも(より多くの構成員を救うという理由により)認められます。また、現行の死刑制度も、そうした意図を含んでいると考えることができます。社会の安寧のために、殺人鬼を野放しにすることはできないからです。(死刑を廃止しても、死ぬまで閉じ込めておくなら同じことです。)

 従って、結局問題となるのは「社会集団の維持繁栄を阻害する存在」が如何なる者であるかということです。具体的には、回復の見込みのない重傷者や障碍者、日常生活に困難を来すようになった高齢者などが、そこに含まれるのか、ということです。高齢者の場合、事前に安楽死を希望するという意思表明があった場合、先程の死ぬ権利との兼ね合いになります。(つまり、死ぬ権利が認められるなら、安楽死も許されるでしょう。)問題は意思表示ができない重傷者や障碍者、意思表示がなかった高齢者などです。彼らを安楽死させることは許されるのか。人は生存する権利を有するのだから、如何なる理由があろうと死亡させることは許されないという主張に対して、反論はあり得ませんが、「生存したいという意思」を表明することがない場合はどう考えるべきでしょうか。更に言及するなら、この問題はどこまでを人格を持った「人間」とみなすべきかということにまで至ります。これはやはり、社会集団の状況とその集団がもつ価値観によって変わるとしか言いようがありません。

 「一人の遺伝的疾患の患者が60歳になるまでにかかる費用は5万マルク。」 これは、あの悪名高きナチスがプロパガンダで使った宣伝文です。第一次世界大戦の莫大な補償で、ワイマール共和国が疲弊にあえいでいた時です。私たちはこの言葉に嫌悪を覚えますが、当時に人々にはどのように捉えられたのか想像することは可能でしょう。間引きも姥捨ても、生産性が低い極限状態にあった社会ではやむを得ない選択であったと考えられます。先に挙げた死刑制度もトリアージも、程度の差こそあれ、命の選別を行っていると言っても間違いではありません。社会集団の存続のために、それを避けることはできないのではないでしょうか。結局のところ、社会がどこまでそれを許容するかにかかってきます。殺人鬼を死刑乃至は終身刑に処することは「問題はない」としても、障碍者、脳死者は命が尽きるまで生きていてもらうべきなのか、それとも安楽死させるべきなのか。状況によって様々な要因が絡むでしょうし、社会のもつ価値観、そこに生きる人々の感情などが複雑に交錯してきます。ただ一つ言えるのは、社会に資することのない人間を躊躇いなく処理するという社会は、合理的と言えるかもしれませんけれど、ある意味で余裕のない社会ではないかということです。